西暦2013年 本格的自然釉 武吉廣和 新作展Ⅵ 秋の器 割山椒向付展
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祝 高速道路開通  赤松30トン、10昼夜の焼成。

期間:2013年 11 16日(土)〜12 3日(火) 時間:AM 9:00〜PM 5:00 *木曜定休
会場:ギャラリー 龍窯
   〒786-0097 高知県高岡郡四万十町日野地326
  <ギャラリー龍窯 地図>
   Tel&Fax/0880-23-0054
   作家携帯/090-4506-0572
   ● 龍馬空港からギャラリー龍窯まで 車で1時間半。
     四万十町中央ICより 車で25分、松葉川温泉 手前1kmに看板あり。

 



まず御礼です。
当初、直撃かと心配された超巨大台風27号、28号も遥か太平洋上を神回避、
10月26日(土)、27日(日)両日の四万十市ギャラリーしばさき展、
なんと100人近いお客様におこしいただきました。
企画してくださった芝崎様をはじめ、開催に際して尽力してくださった多くの方々に、大盛会を感謝いたします。
古いものほど新しい
秋になるとテレビで正倉院展の映像を眼にする。
「夾纈(きょうけち)」という板締め染色の復元シーンに思わず見入ってしまった。シンプルで健全、古いものほど新しいと感じてしまう。
染色の材料から発色技法、型板の高精度の木工技術まで、工人集団の仕事の構築のクラスが高い。準オーパーツのようなものを感じる。
古代の王朝の人々の黄金と、趣味の高さゆえに高貴な仕事の風を感じてしまう。
こんな仕事をしたいと心底思って、3500年前の殷で生まれた龍窯に取り組んでいる。私は魯山人と同じ新古典派で、古代の様式に冷淡な姿勢はとらないし、それどころか畏敬の念を禁じ得ない。
現代は個の時代で、個人の数十年という短い時間で研究するテーマは限られる。
龍窯は日本では加藤唐九郎によって穴窯とよばれている。

龍窯を築いた目的のひとつに割山椒向付がある。古くからお茶事で秋に使われる向付だが、楽や唐津や備前のものもあるけれど、私はどうしても石を咬んだ荒い信楽土の焼き締めの割山椒にこだわる。
霜が降りる前に急がねばならない畑仕事を終え、秋の陽は釣瓶落としと、夕暮れせまるベランダで焚き火を起こしながら紅葉の山々を眺める。日が暮れると月を眺める。自作の割山椒の出番である。
ワインの時には青カビチーズを盛るし、日本酒の時には、春に作り貯めた蕗味噌や、ミヨウガのヘタを「おたふくのラッキョウ酢」に漬けたものを盛る。
山里暮らしの器、土の華である。

今のように「器作家」と呼ばれる陶芸家の流れが出てきたのは、1970年に始まる魯山人ブーム以降であると思う。
魯山人は1959年に76歳で死去した。その後の10年間ほど、敵が多かったためか、魯山人の食器は優遇されなかった。荒縄でまとめて梱包されたまま某陶器店の棚下でホコリを被っていたという。
その時代に丹念に捜して買い集める人が居たという。巨匠達が死後色褪せるのに比して、かくも早くに鮮やかに復活、顕彰されたのは元弟子の吉田耕三氏(東京国立近代美術館)と辻留の功績が大だと思っている。
魯山人は王朝の人々の食卓のように、食器を芸術作品の域にまで高めた。1970年代当時は、加藤唐九郎や荒川豊蔵などの作家の個展では、茶陶が主力で、ぐい呑くらいが、かろうじて食器の範疇だった。
瀬戸の焼き物祭りや備前の焼き物祭り等にも行き、膨大な出店をしらみつぶしに見て回っても、とうとう「これは」というものに出会うことはなく、腹立たしい思いで「ただの窯屋の在庫整理だ。」とつぶやきながら疲れ切り、失望して、手ぶらで帰った。以来、二度と行ってない。製造単価の問題、窯屋と芸術家の乖離、期待する私のほうが間違っていた時代だった。

それが変化してくる。芸大の陶芸科が出来、そこを出た若者は、一旦、陶芸家の元や製陶会社で3年から7年ほど修行をして技術を身につけ、普及が始まった小型の灯油、ガス、電気窯で個人作家として独立する流れが出来る。
その後、建築ブームと呼応して陶芸ブームが起る。
近代建築で都会的生活をする、文化的に洗練された人々を顧客対象とする、都会の若い女性達が起業したトレンディな「器ギャラリー」で作品としての食器を販売する流れが出来る。
名称も「◯◯焼きの皿」から「陶芸家◯◯◯◯の器」へと変わってゆく、これが個人作家、器作家の誕生である。そのため、陶芸家もギャラリストも、女性雑誌や料理本の器スタイリストも、立地条件のいい東京周辺、益子や笠間、あるいは、伊豆、鎌倉等の観光地で独立開業した。
陶芸家として名を成すために公募展に出品しながら、結婚して子供ができると、安定した日々の収入が要るので、手堅い食器を主力に焼くようになる。

私は陶芸を志した当初から、誰も成し遂げていない龍窯による自然釉の体系的完成を目標にしたので、豊富な赤松を求めて四万十川上流に築窯した。
都会周辺の彼等とは全く違う、独学のけもの道を行った。
緑色の自然釉のたっぷり掛った大壺を焼成する目的で、理想とする鎌倉期の穴窯を自分で設計し自分で築いた。
学生時代、放浪時代を通じて、荒川豊蔵の穴窯、森陶岳の穴窯、小山富士夫、中里隆等の穴窯、を見学し、そのころ手に入る限りの世界の窯と日本の穴窯の資料を集め研究した。
誰も手をつけていない自然釉の空白地帯、四国に魅力を感じて、土佐の陶土で自然釉を焼くというテーマを選択した。
高知県土佐山田町(現 香美市)の林谷古窯跡(須恵器の窯、平安時代)の窯体を参考に、高知県工業試験場での土佐の陶土の分析表をも考慮して、自分の身長、体型に合わせて自分なりに、理想的な「鎌倉時代の穴窯」を設計した。

初窯焚きで応援に駆けつけてくれた大学時代の6人の友人達は、私の穴窯を見るなり、傾斜が緩いことと、湿気が強い地形的条件を挙げて、焼けない窯だと言った。
いいものを焼くには還元焼成が欠かせず、それには水性ガスと燃焼圧力が要る。 51歳で自然釉の体系的完成をみるまで、なんと20年という証明期間を要したことになる。
最前部にある焚き口一ヶ所で窯内の10メートル奥だけをピンポイントで温度を上げてゆく、39年前に小耳に挟んだ伝説の焼成法である。
石の上にも20年である。
一度焚く毎に,耐火レンガの熱膨張と収縮で2㎝煉瓦が開くのと、内壁に自然釉が付き、作品に窯糞が落ちるので、三度、全面的に打ち変えはしたが、この三十数年、頑固に当初のままである。
 
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