西暦2013年 本格的自然釉 武吉廣和 新作展Ⅶ 正月の器 板皿展
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祝 高速道路開通  穴窯で赤松30トン、10昼夜の焼成。

期間:2013年 12 7日(土)〜12 25日(水) 時間:AM 9:00〜PM 5:00 *木曜定休
会場:ギャラリー 龍窯
   〒786-0097 高知県高岡郡四万十町日野地326
  <ギャラリー龍窯 地図>
   Tel&Fax/0880-23-0054
   作家携帯/090-4506-0572
   ● 龍馬空港からギャラリー龍窯まで 車で1時間半。
     四万十町中央ICより 車で25分、松葉川温泉 手前1kmに看板あり。

 
作家の力量
今年は松葉川温泉周辺の遊歩道の紅葉が本当にきれいだった。
この板皿は、その紅葉と料理の乗る自然石のイメージでつくった。
落ち葉をモデルに粘土塊から即興で作るガイアリーフの実用版の板皿として生まれたので、当然それなりの存在感と重さがある。

最初の3日で火前を1350度以上まで上げ、10昼夜焼き込むと、火前ではカーボランダム(炭化ケイ素 SiC)の棚板さえ曲がるので憧仙傍の団子で支えた板皿もへたったり反ったりするのでむずかしい。

室町時代の古信楽大壺を焼いた穴窯は現代のような耐火性の棚板が存在しないので、窯出しの際に外せるように陶片を挟んで丸い壷の上に丸い壷を積む難しい手法で窯詰めするしかなく、火前で焼かれた壷はたっぷりかかった自然釉で壷と壷が熔着し、やまきず(窯の中での傷)や変形があるのが普通である。
一番上に積まれた壷だけは、そこそこ無傷の可能性があるが、(粘土層を手掘りした窯なので)窯の天井から土片や砂が壷の口部や肩に降りそのまま熔着する。

自然釉の世界は、なにもかも含めた大きな器量で、美しければ天巧として見どころとするしかない。
自然釉の焼き物を愛でる日本人独特のおおらかな美学である。
盛られた色とりどりの料理を頂いたあとも・・・大地のような自然な皿。
焚き火を前に、紅葉と寒空の月をながめつつ、土器で酒を飲む。 そんなときの器。

石川啄木の歌だったか「汚れたる足袋履くような思い出もあり」というような歌があったようにおもう。
啄木の歌とニュアンスはすこし違うが、阪神大震災や東北地方の大津波、台風30号に襲われて更地になったフィリピンのレイテ島の映像を見ると、36歳の頃と47歳の頃の、更地になったような心象風景を思い出す。
36歳の頃、わたしは助けを求めてなりふり構わず、日本中を「スポンサー!スポンサー!」と叫びながら駆け回った。
名古屋のサンギャラリー住江に飛び込んで、杉本貞光が掘っ立て小屋で独立した頃からずっと取り引きのある女性オーナーに、なんだかんだ言いながら、自分を売り込んでいた。
そばで記事か論評のようなものを書いていた紳士がサラサラと書き上げ「これでいいでしょう。」と原稿を彼女に手渡した。彼女は眼を通し、満足気に「いいわ。」と言った。そして紳士は私のほうに向き直り、「先程から話は聞かせてもらった。きみには勇気がある。」と言った。ここまでは・・・良かった。

彼は言葉を続けた「いい仕事をして今売れている作家にも、それぞれ長い長い辛抱の歳月がある。スポンサー、スポンサーと言う前に作家の力量。」と言って名刺を差し出し、さわやかで上品な笑顔を残して店を出て行った。
私は・・・ぼうぜんとして・・・そして・・・恥入った。
世間人としての恥は鈍磨してもうなんともなくなっていたが、陶芸家としてのホコリは自分でも何故だかわからないが強烈にいかんともしがたい。死んでも直らないだろう。
彼の言葉は正しい。そして顔が真っ赤になったまま真っ直ぐ土佐の山奥の窯場に帰った。
それ以後、助けを求めず、背水の陣を敷き、迷えば、死ぬほうに死ぬほうに賭けた。仕事の難易度を求めてひたすら進んだ。

そして臥薪嘗胆の10年を経た1997年、47歳。
一流百貨店の美術画廊に不況とリストラの嵐が吹き荒れ、私も含めて陶芸家が総崩れになり、陶芸家と行政が我遅れじと陶芸教室を開く流行があった。義弟の紹介で、藁をもつかむ思いで東京銀座の画廊まわりをした。
バブル崩壊後7年、「堅い」はずの銀行が持ちこたえられず、はじめてつぶれた年だった。
作品を見せ「自然釉か?」と聞かれ「そうだ。」と答えると、「仕事が良すぎて扱えない。早くやめたほうがいい。」と皆、親身に、口を揃えて言った。

1991年に窯場に来た週刊ポストの取材班と同じ言葉「もはやバブルも崩壊し、リスクの高い自然釉の仕事は日本ではもう誰もやってない。早くやめたほうがいい」と、そっくり同じ言葉を彼等は口をそろえて言った。陶芸業界では自然釉とは名ばかりの、あらかじめ灰を積む手法が席巻していた。
「作家の力量」が「横並びの陶芸家と横並びのギャラリスト」を超えた、「ビミョウな勝利」の瞬間であった。

自然釉の体系的完成期に入ったのは、それから4年後の2001年正月の窯焚きからである。ちょうど精神文明の世紀と言われる21世紀に入った瞬間からである。
そして「仕事が良すぎる」と言って誰もがとりあってくれないなら自分でギャラリストとキュレーターをやるしかないと、2004年に本格的自然釉の作家だけを扱う「ギャラリー龍窯」「龍窯美術館」を狭い自宅玄関に開設した。
「組織は在って無い。」これだけで十分に機能する。


2005年5月北川村のKAMONというギャラリーでマルモッタン美術館館長のジャン・マリー・グラニエ氏(故人)が「自然釉か?」と説明役のO氏に聞く、「そうだ。」という1997年と同じやりとり。
その後続いた意外な言葉。
「もう説明は要らない。今まで、いろんなものを見てきたが、これだけスピリチュアルな自然釉は見たことがない。古いものを研究してそれを超えて、作家独自の自然釉の世界を構築しているのがすごい。お金持ちに右から左に売れるようなものではないが、これが分かるひとは、わたしのまわりに少しは居る。」

お金持ちに右から左に売れるが、一流美術館の館長クラスの人からは相手にされない作家もいる。
お金持ちにも一流美術館の館長クラスの人にも相手にされない作家もいる。
お金持ちに右から左に売れ、一流美術館のコレクションとして購入される作家もいる。

私の作品は、分布曲線で一番多いお金持ちに右から左に売れるようなものではないので、一般のお金持ち相手のギャラリストも百貨店の美術画廊の責任者も「仕事が良すぎて扱えない。」と断る。
しかし分布曲線ではごく少数派だが、一流美術館館長(奥様が陶芸家)と周辺の「少しは居る」人達にとっては「これだけスピリチュアルな自然釉は今までみたことがない」のであり「仕事は良すぎなければいけない」のである。


 
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