2013 新作展-1 武吉廣和の蹲壺展(うずくまるつぼ)
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蹲壷(うずくまるつぼ) 銘 玄燿 高/15cm
蹲壷というのは茶道で使う花入れで、高さ20センチ以下の小振りな壷を指す。
古信楽の伝世品は多くない。
白い椿を一輪、活けたいがために、どうしても焼きたい私の目標のひとつである。

祝 高速道路開通  赤松30トン、10昼夜の焼成。

期間:2013年 7 1日(月)〜24日(水) 時間:AM 9:00〜PM 5:00
会場:ギャラリー 龍窯
   〒786-0097 高知県高岡郡四万十町日野地326
  <ギャラリー龍窯 地図>
   Tel&Fax/0880-23-0054
   作家携帯/090-4506-0572
   ● 龍馬空港からギャラリー龍窯まで 車で1時間半。
     四万十町中央ICより 車で25分、松葉川温泉 手前1kmに看板あり。

西暦2013年4月26日から5月5日までの10昼夜、
赤松30トンによる5年1ヶ月ぶりの窯焚き。

右の写真の紅い小壷は武吉廣和32歳の1982年に「古土佐の世界シリーズ」の二度目の窯焚きでとれた作品、「紅い自然釉」が生まれている。土は高知県香南市の白岩窯跡群(平安時代、12世紀)周辺の陶土。

5年間と1ヶ月ぶりの窯だきの結果は重厚極まる玄い(くろい)世界で今までで最高の出来だった。
今回は「紅い自然釉」をテーマに研究して窯を焚いた。白い世界から玄い世界へ移行する準備に5年かかったことになる。古代より陶は政(まつりごと)をあらわすと言われるがそのとうりだと思う。

今まで20年間以上、「玲瓏たる雪のような白い自然釉の研究」を続けてきたが、今度は30年間頭から離れなかった「紅い自然釉」を焼く窯焚きである。自然釉は体系的完成期に入って12年目となる、焼成の法則を正確に確認して焚いてゆく中で、面白いテーマは同時並行で生まれて来る。
私は穴窯一基しか持たない。火前で1350度、10メートル先の煙道で表の写真のような蹲壷(うずくまるつぼ)をとるような、これ以上焼く事が焼き過ぎで自然釉が意味を成さないクラスの領域では、ガス窯や灯油窯、電気窯、連房式登り窯等での試験は全く意味を成さない。毎回、十昼夜、赤松30トンでの一発勝負をやるしかない。

過去のデータでは、1982年と1993年と2001年と今回2013年の窯焚きが複雑な順列組み合わせの中で紅い自然釉が出現する可能性の高い焼き方、冷却プロセスである。簡単に言うと、焼成と冷却のプロセスで窯中の一酸化炭素濃度をどう劇的に変化させるかという問題。

人間。還暦もすぎると、見える世界もぜんぜん異なってくる。長生きはするものだと思う。奥村土牛も土牛独特の神韻渺々たる画風が始まるのは60歳からのように思う。加藤唐九郎も73歳頃から「化ける」としか言いようのない程、よくなる。
窯焚き中、いつもの緊張感のなか、奔馬のように温度が上がるのをダンパーで抑え抑え焚いた、そうなるように作品制作と窯詰めをした。5月にしては異常な程寒い十日間で、おかげで暑さによる体力消耗が皆無であった。
完成期に入った2001年から、窯焚きの時はいつも天象が協力してくれる。
天象からは「祝福」のサインが続き、「これで良し。」「これで良し。」とひとつひとつのプロセスを確認しながら法則どうり焚くことが出来た。
今回の窯焚きチームは20数年来の窯焚き仲間の藤方正治氏と、34年前に一緒に窯を打って以来の弟の武吉真裕、生まれて以来、窯焚きで育った息子二人の計5人で終始気持ち良く焚けた。

武吉真裕は埋蔵文化財発掘調査のプロで、2004年に開催された愛知万博に伴う瀬戸の猿投山の河合山茶碗窯跡遺跡調査発掘作業では実質的現場責任者だった。穴窯を30年以上焚き、藤方氏とも中国に行って考古学遺跡を巡る旅もしてきている。
穴窯を築き、焚くプロで、測量と、発掘調査が出来、報告書を書ける考古学者はめったに居ない。
窯の構造のなかでも特に焚き口の構造。最後部の煙道部分に在るはずのダンパーの役目をする遺構は最重要ポイントととなる。

高知市における最古の寺である白鳳時代の秦泉寺廃寺の屋根瓦の胎土が香美市新改の「植」の土であると2001年に同定したのも武吉真裕である。
これで白鳳時代の瓦事情だけでなく河川運搬ルートも分かる。
高知県の縄文土器のチョコレート色の火山灰質粘土は23000年前のAT火山灰由来の粘土であるという仮説を立てたのも武吉真裕である。
今は弁慶の父親の隠れ里と言われる黒潮町の熊ノ浦で小さなガラスの温室を建てて火山灰やプラントオパールの研究をこつこつやっている。金にならない基礎研究の重要性を知る人である。

なかなか口が堅く、今回の窯焚き中に瀬戸の猿投の古窯発掘の体験談をはじめて聞いた。
2004年に開催された愛知万博に伴う緊急発掘で仕事が来たという。極めて奇怪なことだが、発掘調査の進展とともに、窯焚きが完了し封印された状態の窯が見つかったという。焚き終わり封印された薪投入口と中身の重ね焼きされた山茶碗がそっくり残っている古瀬戸の猿投古窯の遺構がどれほど重要なものか。やや軟質の花崗岩の地山を掘り抜いてつくられた中世の穴窯の薪投入口と煙突付近にあるはずのダンパーの遺構は超重要。
薪の割木20トンとか30トンが通過する小さな薪投入口はよほど堅牢でないと崩壊する。ひとたび崩壊して大口が開いてしまうと、高熱で近寄れず修理も諦めるしかない。
焚き口が崩壊し大口を開けた窯は飛行中にエンジンが脱落したジャンボジェット機に等しい。

聞けば、焚き口だけに正確に古い盗掘口が開いていたという。
窯の中身の山茶碗には一切手を付けていなかったという。これだけの器量を持つ人物はそうそう居ない。
もしかして若き日の加藤唐九郎だろうか。
焼成中の薪投入口の構造が分からなければ、400年前に滅びた穴窯は復元出来ない。
窯出しした後の焚き口の大穴では何も分からない。
日本で最初に穴窯を復元し、焼成に成功し、当時の連房式登り窯と区別するために「穴窯」と名付けたのは瀬戸の加藤唐九郎で1930年、加藤唐九郎32歳の時である。

 

*私的メッセージ
土佐 奈半利川住 天水刀の鍛冶 天水様
たまたま今、検索でお借りしたままになっている書籍の件にヒットしました。
本当にごめんなさい。あなたのバイブルということはわかっていますので客間の最上部の戸棚にいつでも出せるように大切に保管しているはずです、今から捜します。

それにしても必死で箱フイゴをさがしていた頃からですから何年経ったのだろう、満足さんは長船で刀鍛冶に精進してます。
あの後、刀匠の国家試験にパスし、帯に短し襷に長しで、結局「これがおれの箱フイゴだ」というものに出会えないまま師匠の箱フイゴを譲ってもらって使っていると思っています。
あれから5年ですか10年ですか。箱フイゴの件では大豊の定福寺の民具館でもそこそこ使えるものがありましたが、町有財産になっていて手に入りませんでした。
あなたにも苦労して捜していただき、貴重な物件の情報もいただきましが、満足さん本人の実際に見て使っての判断が第一で、素人の私にはうかがい知れず、私の日常的金銭的欠乏といういじましい面もあり結果的にこんな宙ぶらりんな結果になってしまい申し訳在りませんでした。
手ぶらでは本を持ってお礼に行けず、心にはずっと引っかかっていました。知らせてくれてありがとう。

今、封筒に包まれて出てきました。「横山祐弘職人ばなし、鍛冶屋の教え」と「和鋼風土記」の貴重な二冊ですね、我ながら、出てきてほっとしました。

今、ひそかに5年ぶりの窯焚きを終え、窯出しが昨日完了したところで窯場は緊張した戦場のままですが、お忙しいでしょうけれど窯場に遊びにおいでませんか。

「鉄」「鹿の皮はぎナイフ」に関しては教えてほしいことが山ほどあります。これからブログをゆっくり読ませていただきます。住所とお名前のメモを紛失しました。
この文章長過ぎたのかブログのコメント欄に入れることが出来ませんでした。メールください。

                              2013年5月20日     四万十川の焼き物屋 武吉廣和

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