西暦2014年 本格的自然釉 武吉廣和の謹賀新年展 |
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祝 高速道路開通 穴窯で赤松30トン、10昼夜の焼成。 | |
これで4メートル材の赤松丸太10トン、 10トントラック1台分。松枯れ材は1本も入って無い。 この冬、この3倍の赤松を斧で割る。 11月から2月までの休眠期に伐ったものを斧とくさびとハンマーで割って半年乾燥させる。 丁度冬なので、つめたい空気を胸いっぱい吸って、斧の重みだけで割ると、体が暖まって気持ちがいい。 こういう単調筋肉運動は本来、武道の基本で奥が深い。 節は必ず一撃必殺でマップタツにする。 若い頃は大道芸で喰ってゆけないかと真剣に割り箸を立てて斧で割ることもやった。 奥歯が欠けて歯医者に行くと「強く噛み締め過ぎです。」と言われた。 |
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期間:2014年 1月 4日(土)〜1月 29日(水) 時間:AM 9:00〜PM 5:00 *木曜定休 |
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ブラジルの穴窯 | |
ギャラリー龍窯に、ブラジルからの女性2人と、知り合いの日本人の御夫婦が来られた。 彼等が帰った後でブラジルの陶芸事情をネット検索すると、なんと佐賀県立工業試験場で分析したブラジルの陶土の成分分析表が出てくるではないか、備前に似た土と信楽に似た土があるという、これには驚いた、日本とレベルはなんら変わらないではないか。サンパウロ州の広さは日本と同じとか、途方も無く広大なブラジル全体では、これからとんでもない陶土が見つかり、今まで誰も見たことが無い自然釉が出現することだろう。 たとえば私の壷2000年の「水の王」と2013年の「玄」は、同じ胎土、同じ温度、同じ窯内での位置、焼成は同じ赤松30トンの薪を10昼夜投入しての強還元焼成、炭化冷却した自然釉の壷である。肥えた赤松にこだわるのも、青磁釉と同じものを、自然釉で十昼夜で形成してゆく、という考え方で必須になる強還元焼成が理由。 現在、アメリカには自然釉の穴窯の作家は多いし、ブラジルも時間の問題、フランスでも同じ。 |
フランスのノルマンディー地方の自然釉の穴窯 | |
遠く離れたブラジルの陶芸家達と同じく、フランスの女流陶芸家グラニエ夫人もノルマンディの幻の穴窯復元を夢見ているのだろう。 マルモッタン美術館前館長グラニエ氏(故人)のコレクションの中にノルマンディ地方で焼かれたらしい自然釉のピッチャーあるいはジョッキのようなものがあり、謎だという。その写真をフランスから帰った陶芸家の新田文江さんに見せていただいた。 1枚のスナップ写真を見た感想を書こう。 日本の穴窯工人達が海外渡航してフランスで穴窯を築き、自然釉の陶器を焼き始めたという仮説 通説では自然釉は日本独自ということになっているが、中国の前漢時代にも、明らかにたっぷり自然釉の掛った壷がある。 日本も1930年に加藤唐九郎が復元するまではフランス同様、自然釉の穴窯の存在と構造と焼成法は謎だった。 前漢の時代というと日本は弥生時代、ローマではカエサル以前の共和制、イエスキリストが生まれる以前、フランスはケルトの頃で、銀化したローマングラスのように、土中のフッ素でカセタ自然釉のジョッキのオーパーツ的発掘は有り得ても、宝物ではなく実用品として使える状態で2000年以上、破損なしに伝世することは有り得ないと思う。 そこで可能性がありそうなケースをひとつ。 前漢の技術ではなくて、16世紀末から17世紀始めにかけて、戦国時代の日本の技術がフランスに渡ったという仮説。 1543年、種子島に中国船が漂着し、ポルトガル人から鉄砲が伝わる以前には日本人はインドと中国、朝鮮、東南アジアは知っていても西洋とアメリカ大陸は知らない。 キリシタン大名達の天正使節団は1582年に出発し、1590年に帰国する。 この1590年に日本は初めて西洋を知る、そしてグーテンベルグの印刷機を持つ。 豊臣秀吉は1587年にバテレン追放令を出し、1591年千利休切腹、そして朝鮮出兵(1592~1598)、1600年関ヶ原の合戦。1611年慶長三陸地震,伊達政宗は1613年支倉常長をメキシコ経由でスペイン、ポルトガル、ローマに送り1620年帰国。「ハポン(日本姓)スペイン人が現在スペインにいる。」 翌年仙台藩内のキリシタン弾圧。 1614年に徳川家康がキリシタン追放令を出し、キリシタン大名高山右近が日本を退去してマニラの日本人街で1615年に病没をする。伊賀花入れで有名な古田織部も1615年切腹。 利休の弟子でキリシタン大名は少なくない。茶の湯はキリスト教と禅宗との融合である。 1616年清の前身である金が建国、1621年には幕府は日本人の海外への人身売買禁止令を出している。 1635年には日本人の海外渡航禁止、帰国禁止令がだされ「3000人いたとされるマニラの日本人」は歴史から消えてゆく。1637年には李氏朝鮮は清に服属する。 日本の穴窯陶工がフランスに渡る可能性がある期間は1590年から1635年までの46年間 利休、織部指導下の、古伊賀を焼いたキリシタンの穴窯陶工達が、海外渡航し、フランスの王侯貴族の庇護を得て、ノルマンディ地方で日本のカオリンに似た陶土を捜し出し、粘土層を手掘りして穴窯を作るとする。その掘り出した粘土で作品を焼く、燃料の薪はフランス一帯に生えている赤松。 カーボランダムの棚板が普及するのは40年ほど前からで、それまで各陶業地でつくられていた重い硅酸質の棚板は1300度に曝される時間が1時間以下という連房式登り窯では使用に耐えても、一週間という超長時間、1300度以上に曝される穴窯では曲がるか融けるかして棚組が壷ごと崩落して使用に耐えない。 ここで書いているのは17世紀前半の日本とフランスの話だが、18世紀のイギリスでヨーロッパ最初の磁器であるボーンチャイナを発明した錬金術師は酒も女も金も望むがまま与えられた、しかし一生、城から出してもらえなかったという。 私もこの冬、冬に伐った肥えた赤松30トンを買付けに愛媛県の大木坑木という四国一の木材市場まで通っている(写真)。 話が戻る。我が土佐藩でも、須恵器が焼かれた平安時代以後450年間、自然釉の穴窯も連房式登り窯も全く無かった。これはシリカ質のカオリンという土佐の陶土の問題、萩でも穴窯による自然釉の時代が空白だが同じ理由。シリカ質のカオリンは、短時間で焼く連房式登り窯では、なんら問題なく使える。 しかし400年もの歳月が流れ、なにもかも忘れられた現在、パリの蚤の市に出ても、その真の価値を見抜ける人は日本の自然釉の凄さを知っている人だけだろう。だからフランスアカデミー会員で東洋美術に造詣が深いグラニエ氏は尋常でないフランスの自然釉と見抜いて購入したのだろう。今後、王侯貴族の古文書を丹念に当たって関連する記録から捜すか、科学的に胎土の成分分析をして、手がかりとなる粘土採掘地点を同定するしかないだろう。 |