武吉廣和の自然釉壺展
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祝 高速道路開通  穴窯で赤松30トン、10昼夜の焼成。

期間:2014年 2 1日(土)〜2 26日(水) 時間:AM 9:00〜PM 5:00 *木曜定休
会場:ギャラリー 龍窯
   〒786-0097 高知県高岡郡四万十町日野地326
  <ギャラリー龍窯 地図>
   Tel&Fax/0880-23-0054
   作家携帯/090-4506-0572
   ● 龍馬空港からギャラリー龍窯まで 車で1時間半。
     四万十町中央ICより 車で25分、松葉川温泉 手前1kmに看板あり。

 

梅も咲き始め,ウグイスの初音を聞きつつ薪割りをしている。
松は四万十川の支流、黒尊渓谷の北方の標高の高い国有林で育ったもの、直径20センチの細さでも50年は経っていて、風当たりが強かったのかねじれ、斧が跳ね返るほど強靭。
一回一回、命懸けで御神事として窯を焚いているので、深山の原生林に育った神々しい松ほど嬉しい。
中には梁に出来るような太さの松も何本かある。土と松にはお金を惜しまない。
還元焼成するために欠かせない油脂と自然釉を構成する灰が多い。
燃焼中に、この松の薪の灰が飛んで、黄ノ瀬土と反応して美しい自然釉となる。



マンモスの骨で焚き火をする

昨年暮れに「世界不思議発見」というテレビ番組を家族と見ていて、トルコの1万1600年前のギョベックリ・テベ遺跡には驚いた、氷河時代の、世界最古の神殿遺跡である。
農耕、牧畜以前の狩猟採集の時代に、このような高度な彫刻の施された巨石神殿が存在する。
まさに人類学というものの、現代のコペルニクス的どんでん返しである。
他の分野と同じく、これで人類学でも最初の基礎となるものがゆらぐ。

そもそも最終氷期は7万年前に始まり1万年前に終る。
暖かくなった10000年前頃から夜明けのようにイネも麦もヤギもウシも馬も豚も野生種から生まれ、細々と始まる農耕牧畜が人類の人口増加をもたらし、村が出来、その後、5000年前頃にようやく都市や国や巨大神殿ができて、王や神官の宗教が生れたという2500年前のギリシャのヘロドトスから始まる従来の歴史学を考え直すことになる。

この発見で最初っから、原始人とされていた氷河時代からすでに神が居ることになるのである。今の海面から100メートル下のかつての陸地にはおびただしい未知の神殿遺跡が眠っていることだろう。
我々現世人類は20万年前に南東アフリカで生まれ10万年前には中東に、スンダ大陸(今の東南アジア、スマトラ、ジャワ、ボルネオ)から島々を伝って延長90キロの海を渡って5万年前にはサフル大陸(今のオーストラリアとニューギニア)に、そして4万年前にはヨーロッパに、そして2万5000年前にはシベリアのツンドラ地方に達する。
1万5000年前には陸橋となったベリンジア(今のベーリング海峡)を通って北アメリカに渡る。そして1万3000年前には南米のチリまで到達する(食料の一部はやはりマストドン、なぜか象を追っかけて行ったように思う)。

2万7000年前のチェコ共和国のドルニ・ベストニーチェ遺跡の小屋は地下1メートルの縦穴住居で壁は木柱で囲まれ獣皮で覆われていた、寒すぎて樹木が育たない草原という氷河時代の環境なので住居内の炉の燃料はなんとマンモスの骨。
同じく氷河時代の1万5000年前のウクライナのメジーリク遺跡には、マンモスの牙と骨(象牙一本の重さ200キロ、頭蓋骨一個100キロで、とんでもなく重い)で作った小屋があり、やはり屋内には骨を燃料にしての暖炉がある。最も大きな小屋は46個の頭蓋骨、95個の下顎骨、40本の象牙でできていた、総重量20トン、マンモスの神殿あるいは頭骨も燃えるならこれはまるで燃料の貯蔵庫、屋根には獣皮か植物をかぶせていたらしい。

ウクライナの村人たちはマンモス、バイソン、野生馬、トナカイを狩って食べていた。
ちなみに、マンモスの脂肪を燃料にするのは可能だが命懸けで狩った貴重な食料だろうし、マンモスのどの部位の骨が一番燃えるのだろうかと気になって、マンモスよりもはるかに脂肪のない赤身の鹿の骨で試してみた、火にくべると薪のように炎を出して燃えたのには驚いた。
北米からメキシコにかけて12000年前の段階でマンモスもマストドンも生息していて、アメリカ先住民は冬の凍土にマンモスの肉だけを積んでその上に骨と頭骨を載せ冷凍貯蔵している、食料の豊かな暖かい春になれば食べ残しは自然に腐ったという。
大陸と陸続きだった日本でもナウマン象が縄文草創期の1万5000年頃に絶滅するまで狩られている。

こういう氷河時代末の11600年前にトルコではギョベックリの巨石神殿が存在している。そして早くも9500年前、トルコのアナトリア地方の遺跡チャタル・フユック遺跡が世界最古の都市遺跡ということで出現する。
規格化された泥煉瓦で造られた住居群の復元図を見ると,密集した家々の平屋根が通路の役割を果たし、木材の梁で支えた天井に設けられた出入り口から梯子で室内に出入りする構造である。
辰砂(硫化水銀)という赤色顔料をすでに使っていて、壁や天井はきれいに漆喰が塗られ天井にはセンスのいい幾何学模様が描かれている。私も住んでみたいような、現代とさして変わらない建築空間である。
出入り口が天井にあり梯子で出入りするのは、周辺に生息していたライオンの襲撃から身を守るためと言われている。

アルプスの氷河から発見された5300年前のアイスマンが人体の経絡に沿って入れ墨での医学治療を施していて、熊革と鹿革で作ったブーツを履いていた。彼が、何種類かの革のパッチワークのズボンとコートというそのままのファッションでメジーリクのマンモスの骨小屋かチャタル・フユックの漆喰の家から出てきて「コンニチワ」とわれわれに挨拶してきても、現代となんの違和感も無いだろう。

昨夜(1月7日)のテレビ番組「世界の日本人妻は見たSP!天国に一番近い島ニューカレドニア」を見ていて、取材班が島の首長に挨拶に行くシーンで「首長の家」が映し出されて驚いた。これは5000年前の青森県の山内丸山遺跡のロングハウスそのもの。

ギョベックリ・テペ遺跡の巨石神殿も最初に建設されたものが一番大きく立派で、その後どんどん小さく劣化してゆく。
同じことはエジプトのクフ王のピラミッドにも言える。4800年前と言われる南米最古のペルーのカラル・シクラス遺跡でも円形神殿(楽器が発見されている)やピラミッド群が造られている。きわめて高度な都市計画も素晴らしいが、その後、やはり石から日干し煉瓦へと技術が劣化してゆく。
サクサイワマンの巨石のカミソリの刃が入らない摺り合せ技術も、本当にインカ時代なのか・・・。

発掘調査が地下水の浸潤で及ばず、7000年前以上に遡るとも言われるインド最古の都市モヘンジョダロの場合、最初から焼き煉瓦を使い、整然と都市計画されて建設されている。武器らしきものは出土せず、大浴場と下水道が完備していて、おまけに原子爆弾で滅びた様相すらある。
原爆の父オッペンハイマー博士は、ホピ族の聖地から掘り出されたウランを使った最初の核実験で、計算をはるかに上回るすさまじい爆発を見て、思わず「インドラの矢だ!」と叫んだことは有名である。

フランスのマリー・アントワネットの時代になっても、パリの住人は二階の窓から汚物を下水道代わりの道路に撒くので、貴族はハイヒールの靴を履き、帽子を必ず被っていた。


9000年前から7300年前の縄文早期に押型文内外施文尖底土器を作り、
高知県の物部川、刈谷我野に定住していた縄文人たちと、
南太平洋ラピタ式土器の物語
●刈谷我野遺跡

中国、江西省の洞窟遺跡で氷河期の2万年前の土器片が発見されている。新発見で時代はどんどん遡る。
高知県の香美市、物部川、河岸段丘上、刈谷我野遺跡は陶芸家の眼で見たとき、本当に面白い。
2003年の発掘現場、刈谷我野遺跡の尖底土器片は7300年前のアカホヤ火山灰に埋まっていた。9000年前から7300年前の砲弾型の尖底土器の「厚4ミリ、内外両面押型文」というデザインのレベルの高さには本当に驚いた。
厚4ミリという柔らかい粘土の状態の砲弾型の土器の内外両面に、不安定定な器をささえつつ、原体をころがしての刻印ということが可能なのか・・・である。

8000年前の日本とトルコはどうなのか、世界遺産・チャタルホイック遺跡がある、壁と天井が漆喰で塗られ赤色顔料でデザイン模様が施された住居群である。
また7500年前、シリアとトルコの国境、テル・ハラフから発見された、制作者である陶工印の施されたハラフ式彩文土器がある。ハラフ式彩文土器は野焼きではなく、燃焼室と焼成室とが分離した「窯」で焼かれている。
同じ縄文早期の尖底土器でもピンからキリまであって、燃焼室と焼成室とが分離している窯がなければ絶対焼けないと思われる、火山灰質ではないカオリン質粘土の、巨大な尖底土器も鳥取県の遺跡から出土している。

4500年以前のモヘンジョダロの都市計画の鍵となるのは統一基準の膨大な量の煉瓦を焼く「煉瓦という窯業の技術体系」である、建築も土器も文化のバロメーターになる。
このような古代で、きっちり焼かれた煉瓦の寸法が壮大な都市計画のモデュールとなっていることは有り得ないこと、この煉瓦窯も当然燃焼室と焼成室を持っている。2200年前、秦の始皇帝の兵馬俑の馬を焼いた窯の技術体系も極めて高度である、想像がつかない。古代の高度な焼成レベルには畏怖さえも感じてしまう。

16000年前の氷河時代から始まる縄文草創期から縄文早期まで8000年間程続いた日本のこの尖底土器文化が終焉する原因となったアカホヤ火山灰をもたらしたのは、九州の南方約100キロにある海底火山、鬼界カルデラである。現在の鬼界島や竹島は、海底火山が水蒸気爆発で吹き飛んだ跡の巨大な鬼界カルデラという海底外輪山の、わずか海上に出た頂上部分である。

●縄文土器はなぜ野焼きできるか

こうして陶芸家になってみると、不思議なことに気付く、縄文人は窯無しでも焼けたのである。
我々陶芸家は、富本憲吉も言ったように「窯無き陶工は翼無き鳥に等しい。」のである、つまり窯なしでは何も出来ない。
縄文人のほうが私より優れているということは明白である。なんで焚き火で土器が焼けるのか・・・である。

理論的にみてみよう、焼成中の加熱による土器の胎土に水が無く、かつ、膨張と収縮というものが全くなければストレスというものが発生せず、したがって、割れない。そして一番恐ろしいのは火山と同じ水蒸気爆発で、土器も陶器も胎土中の含有水が100度で水から一気に水蒸気になる過程で爆弾のようにボンと爆発してしまう。

高知県の縄文土器の胎土分析をしての、弟、武吉真裕の仮説だが、約23000年前の鹿児島の錦江湾で起った火山水蒸気巨大爆発で高知県に大量に積もったAT火山灰が泥流になり溜まり、1万数千年を経て風化、チョコレート色の火山灰質粘土に熟成する、その粘土で高知県の縄文土器は焼かれているという仮説。

そもそも火山灰は灰ではなく、ドロドロに融けた地底のマグマが火山噴火の際に地底の圧力から解放されてシャボン玉のようになってはじけた薄片状のガラスである。粘土含有水も水蒸気も砂の中を水が抜けるように、その特殊なガラス質粘土粒子のあいだを楽々と通過するので100度でも水蒸気爆発する原因が無い。
なおかつ、火山で一度焼かれているので本来粘土粒子に存在する結晶水が無い、焼き煉瓦を砕いたシャモットのようなもので出来た粘土ということになる。つまり100度前後で含有水も水蒸気もスッと抜け、普通の陶土で100度から土器の焼成温度800度までの膨張収縮というストレスの原因となる粘土結晶水と石英は粘土になる以前から無いのである。
土器の片側が加熱されて膨張、反対側が冷たくてそのままだとストレスの力が生まれ、引き裂かれ、ひび割れが生ずる。 分かりやすいように極端な言い方をすると、どんなに焼いても膨張収縮せず、水蒸気が楽々と抜ける粘土が縄文土器の胎土である。

アカホヤ火山灰からは想像できないほど大規模に23000年前の氷河時代に降り積もったAT火山灰は、岩石ばかりが残る急峻な山岳地帯から雨で谷川や河川に洗い流され、川から海に放流され、地上と同じように海流で海底の特定の場所に溜まる。
高知平野のように標高5メートル以下の低い平野では6000年前頃の温暖化による縄文海進と呼ばれる海面上昇でAT火山灰とその上層のアカホヤ火山灰層は波に削られ洗い流されるが、土佐山田や窪川盆地や本山盆地には地形上、今でも溜ったまま残っている。そしてこの火山灰が、3000年前頃から始まる弥生時代の稲作と、米を煮炊きする土器作りを可能にしたとも言える。

2000年当初、高知県ではAT火山灰は検出調査例が稀で、地元、窪川で見つかる神ノ西式弥生土器の胎土としてオレンジ色の鬼界カルデラのアカホヤ火山灰質粘土を想定したが、粘土にまで熟成していず、その下のチョコレート色のAT火山灰質粘土と神ノ西式弥生土器の胎土とが目視で同定出来た、砂礫がぎしっと詰まる腰の強い粘土は珍しい。
アカホヤ火山灰が粘土に熟成した姿は見たことがない、火山灰というものは何万年経っても同じ場所に溜まるように思う。
氷河時代の23000年前の鹿児島、錦江湾の火山噴火によるAT火山灰が縄文土器、弥生土器の粘土の母である。1300度で焼き締まり強度が生まれる陶磁器と異なり、800度で焼く土器の乾燥強度と焼成後強度は体験上ほぼ同じなので、強度と収縮率における適性は、掘る前に、乾いた粘土のひび割れ状態(収縮が少ないとひび割れが無い)と破壊強度で簡単に分かる。

ここでは分かりやすいように極論を書いたが、いくら酸性で風化しやすいといってもガラス薄片が簡単に腰の強い粘土になるはずもなく、縄文土器の胎土の粘土の実際は、本当に複雑怪奇で面白い、そもそも土も火も面白いのでついつい深入りしてゆく。

陶芸家の領域の白いカオリンに砂を混ぜ膨張収縮を防ぐ方式の手ごわい縄文土器にも高知県内で出会っている。
工事現場で土器に使えそうな粘土を見つけると最寄りの海岸あるいは河原に行き、直径10センチ程、厚さ4ミリほどのクレープ状にして丸い石に石で打ち付けて杯を作り、乾燥を待たずに、そこらの流木を拾って焼く。現場で冷まして手に取るまで30分以内。出来るだけ過酷な焼成テストをする、合格であれば工事現場に戻り詳細に観察、地質図に遺跡とともにプロットしてゆく、こうした基礎研究を続けると10年単位で何かが見えてくる。
こんな小物で破裂するようなら煮炊きする大物はとうてい無理。
酒を呑んで土の品格が良く、臭いがなければ(稀に臭いのがある)、そして、手で割ってみて土器の平均的破壊強度に達していれば合格である。そして実際に煮炊きに使用しての耐久テスト、胎土間の耐久レースが始まる。





●彼等のその後


数ミリの破片から復元して、これほどの高度な内外両面押型文(厚4ミリ)というデザインの尖底土器を作って刈谷我野に定住していた縄文人は誰で、その後どうなったのだろうと考えた。
便利な尖底土器を熱い燠に突き刺して、山芋ドングリ団子や鹿肉やイノシシを煮炊きしながら今まで10年考え続けた。
7300年前、アカホヤ火山灰が降り続くなかの状況について、考古学者の客観的思考は当たり前なので、楽観的妄想を始めた。

同じ8000年前の前述チャタルホイックの住居群、やテル・ハラフの作者のサインが印されたおしゃれな土器や、5000年前の高楼とロングハウスのある青森県、山内丸山遺跡の縄文人のような文化レベルで妄想。
さらに山内丸山の縄文人が日常に使っていた外洋に出て漁のできる船で、海外に活路を開いたという方向に妄想。

たまたま、この原稿の執筆中の2014年2月1日に千葉県市川市雷下遺跡から縄文早期の7500年前にムクノキで造られた日本最古の丸木舟の舟底部分が出土したというニュースに接した。
また、アメリカとカナダの境、太平洋に注ぐコロンビア川の土手から発掘され、土地の名からケネウイック人と名付けられたた9000年前の縄文人と鑑定された保存状態の良い人骨が存在する。赤道下、船影に寄ってくる魚を釣って食し、雨水を飲んでの、大海流に乗った冒険の旅は、ノルウェーの人類学者トール・へイエルダールのコンティキ号の記録にも詳しい。

南米エクアドルのバルディビア土器やバヌアツ共和国出土の縄文土器から推測されるように、7300年前の高知県の刈谷我野に居た縄文人は、なんとか生き残ろうと、島に上陸しつつ移住していったと思う。舟に尖底土器を積み、麻糸と骨や鹿の角で作った釣り針と銛と料理用の小さな石器とを持っただけで海流に乗り、櫂で島に漕ぎ寄り移住していったように思う。
黒潮の流れに逆らい、火山灰のやってくる暖かい南方に向かう勇気があったのか、北へ北へと逃れたのか不明である。
択捉、国後を経て、水没したベリンジアの陸橋をたどり、ベーリング海峡からカナダ、アメリカに向かったのか、古代における移住への妄想は尽きない。古代の民族大移動というものはこのようなきっかけからドミノ倒しのように始まったのかもしれない。

2011年の東北大津波での漂流物が海流に乗ってアメリカの沿岸に漂着するニュースに接すると、同じような規模だった1611年の慶長三陸地震の三年後、伊達政宗がガレオン船を建造、慶長使節団を乗せて太平洋を横断してメキシコに渡ったことを考えると、あのケネウイック人の古代以来の海流に乗ったルートの可能性に想いを馳せてしまう。

尖底土器はその後、地球上から姿を消すが、押型文の系譜は現在、南アフリカ、カラハリ砂漠のブッシュマンの土器にも見られるし、5000年前のメソポタミアの土器板に残る円筒印章にも見られる。
これも一例だが、3600年前の南太平洋一帯から出土するラピタ式土器の模様も、一見複雑に見えるが円筒状の原体を転がした押型文である。
詳細はまだ検討していないがプレイスの「縄文人コネクション仮説」で7300年前頃に降り積もった火山灰で難民となった可能性のある尖底土器文化の一部の人々が南へ移動を始め、3600年前頃にメラネシアに到達したとしたら人類史的な年代の説明はつく。
縄文草創期以来、刺突文、豆粒文、・・・捻糸文から内外両面押型文まで8000年間続いた尖底土器文化は、押型文とともに、日本列島と地球上(デンマークの中石器時代にもこの頃まで尖底土器はあった)からきれいにリセットされたように消え去り、7300年前から始まる縄文前期から地球上は平底か丸底の土器だけになる。
マンモスやマストドンやナウマン象やアフリカ象やアジア象と土器は似ている。アジア、アフリカ、アメリカの先住民のあいだにかろうじて残る貴重な絶滅危惧種。

いろいろ捜したが、朝倉書店の「人類の歴史」1巻〜4巻(高知県立図書館蔵書)との出会いが長年の疑問を解くきっかけになった。ギョベックリ・テペ遺跡の参考にしたのはネット検索と、ナショナルジオグラフィック日本版2011年6月号。
         
   「晴耕雨読」というよりも、鍬でなく斧を持つ「晴割雨読」という日々が続く。

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