1+4人展 <宮脇賀子・武吉貴子・武吉宣昌・H.T・武吉廣和>
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期間:2014年 8 5日(火)〜8 10日(日) 時間:AM 10:00〜PM 6:30(最終日〜5:00)
会場:かるぽーと 高知市文化プラザ 市民ギャラリー 第5展示室
   〒780-8529 高知市九反田2-1
 ●はりまや橋から東へ400m <かるぽーと 地図>
   Tel/088-883-5011(代)
   作家携帯/090-4506-0572  

 

今回の5人展のギャラリーのある会場「かるぽーと」は2001年に完成した高知市立の複合文化施設である。
1993年、はりまや橋の市民フロアで高知市文化振興事業団主催の「陶芸家 武吉廣和の世界」展開催以来21年程の歳月が経った。2002年の高知県立美術館県民ギャラリーでの「VISION展」以来12年である。
これからの未来を巨視的に展望したい。
長男の宣昌は22歳、次男は20歳、私も64歳、これを機に、妻、貴子の妹である宮脇賀子とともに、
今回の展覧会を開催させて頂く次第である。                            武吉廣和
宮脇賀子のアクリル画(1969・南国市生まれ 大阪府在住)




円空さんのように

昔、「円空さん」と、人々から親しみをこめて呼ばれていたお坊さんがおいでました。
円空(1632〜1695)岐阜県南部に生まれ、三十年各地を巡って修行を続け、山村で田畑か山の仕事にたずさわっていた人々の切実な祈り、恵みの雨、豊かな実り、無病息災などに、寄り添う仏像を造りつづけた御方・・・

円空さんのように、とは出来ませんが。
普通の生活の中に、自然に溶けこむ、少し酸素の濃い空気のように、不思議と癒しの効果のあるような作品を創り続けたいと最近強く思っています。


ー宮脇賀子のアクリル画についてー

グランマ・モーゼス(通称)というアメリカの国民的女流画家がいる。
グランマ・モーゼスは、なんと75歳頃から本格的に絵を描き始め、101歳で没するまで1600点もの明るく楽しい田園生活の絵を描き続けた。
宮脇賀子のアクリル画を眺めているといつもグランマ・モーゼスの絵が思い出されてしまう。
小さい頃から絵が好きで「絵というものは楽しければ楽しいほどいい。」ということが共通しているからかもしれない。
                                                     武吉廣和


◎招待出品/宮脇理奈


宮脇理奈
「ママピース」の名付け親でもある宮脇賀子の娘でまだ高校一年生。
彼女の象の絵を特殊造形家米田武志が三次元拡大をしている。

今回のファミリー展は「ママピースのマンダラアートプロジェクト14周年記念祭(宇宙は7進法)」という側面もある。
「子供たちのイメージと感性を育み、豊かに生きる力と新しい自分を創る力を育てる目的」でプロジェクトを続けた14年間を通じて、子供たちがその後どのように成長したのかを確認する機会でもある。


武吉貴子のマンダラアート(1960・南国市生まれ)

愚の一徹

妻はマンダラアートをライフワークにしている。
1年間に軽く100枚は描いていると思う。
家事のあいだに暇さえあれば、眺めのいい明るい場所で、机に向かってせっせと描く。
超巨大台風が襲来しそうになると、どうぞ大難が小難になりますように・・・と祈りつつ、息を止めて、「龍神様ありがとう」と描き続け、1枚。
戦争への足音を感じると「平和憲法ありがとう」という大マンダラを大勢で描く。
足が痛ければ「足さんありがとう」で1枚・・・という具合である。
どんな難題が起ってきても彼女には「なすすべ」というものがちゃんとあるのである。

最初の頃、小学生の長男に「ママのマンダラはショボイ」などと言われていた。
しかし、石の上にも14年・・・である、いろんなイベントを企画したり、保育園・小学校や中学校・大学・美術館・スーパーマーケット・教会、どこにでも出張って行って普及のためのワークショップを続けるうちに、不思議なマンダラアート作品が生まれだした。
それを「貴子様式」と私は呼んでいるが、コツは何なの?と問うと、
「絵の才能などなくてもいいの、文房具屋さんで、おいしそうな色のカラーペンをいっぱい買うこと。」
                                                     武吉廣和

武吉宣昌のフェルトアート(1991・四万十町生まれ)

ファンタジーフェルト

長男の作業机は陽当たりと眺めのいい廊下の真ん中にある。
テラスの透明ガラス戸越しに、昇る朝日と、眼下の梅林、竹林、田畑、そして向こうに四万十川の支流日野地川と、対岸の山々が眺められる。
ようやく遅い田植えも終わって蛍のシーズン、新緑の谷に、東南アジアから営巣のために飛来してくる深紅の渡り鳥、赤ショウビンが一日中「ミズヒョロン、ミズヒョロン」と鳴いている、ヒグラシも鳴いている。

2012年のかるぽーとでのファミリー展デビュー(右上写真小品5点がその一部)から2年と4ヶ月、変わったことは武吉宣昌の生活パターンが完全な夜型から完全な昼型になったことと、作品がユニットになったことと、繊細な密度、刺繍の色彩がバージョンアップしたことだろう。
写真の刺繍が施された犬、作品名「光」は、それぞれが不思議な造形の4個のパーツを分解出来るようにかっちり組んでいる。

毎日、足腰を鍛えるために、作品の資料を求めて裏山のてっぺんにある安産の神様「高の峠様(タカノトサマ)」まで、小さなカメラをポケットに、杖を持って登る。
出会った鹿や猿やイノシシや狸やアナグマが作品になっている。
森の物語のプレリュード(前奏曲)なのだろう。
写真の鉢植の作品はあるとき発見した面白いキノコに着想を得ている、
鉢の中には茶色の綿に包まれてフェルトの菌糸根もある。                           武吉廣和

H . T の写真(1994・四万十町生まれ)

子供たちが幼い頃、親子でよく宇佐の天皇洲へ渡し船で渡り、アサリ採りに行った。子供たちは歓声をあげて砂地の潮溜まりにとり残されたボラの稚魚やゴリやエビや蟹を追い、結局、服はずぶ濡れになって、最後は裸になって泳いでいた。
自然はバイブルだと思う。

次男(H.T)が小学校の頃にはよく一緒に釣りに行った。
彼の最初の釣果は最大級のキスで、記念にと、魚拓を作った。あの頃の天皇洲はアサリがメチャクチャ豊富だったけれど、年々、海水の透明度は良くなる一方、秋口に増え出す藻がキスゴ釣りの初夏から海底の砂地を覆うようになりキスゴ釣りの砂地を捜すのが困難になった。今ではアサリは絶滅している。
戦後の高度成長期、宇佐では海水の汚染で衰退した真珠養殖と期を一にして縄文人が錐に使ったと思われるヘナタリ貝は1960年頃に絶滅した。
入れ替わるように汚染と表裏一体の富栄養でアサリは繁殖を極める。
そしてバブルの崩壊とともに年々水はきれいになり世界的海水温の上昇とともにアサリは天皇洲から姿を消し、ヘナタリ貝は復活した。

3メートルもない小さな木造の櫓舟を借りて櫓を漕いで小さな港を出ようとすると、なかなか思う方向に進まない。早く釣りをしたい私は気がはやり、力まかせに大汗をかいて漕いで進んだ。そのうち陸の方で手を振りながら大声で誰かが何か怒鳴っているのに気が付いた。貸し舟屋さんの大将だった、やっと聞き取れた言葉は「オーイ、碇を上げないかんぞー!」。

春の大潮の満ち潮がはじまると、宇佐大橋の架かる狭い湾口から広大な浦の内湾内に流れ込んでくる大量の海水でそれほどは大きくはないが渦潮ができる。面白そうなので次男と櫓舟を乗り入れると、深く暗い海底から海水が湧き上がり、複雑な模様で盛り上がるようになった水面のうえにさしかかった。
そのときデジャブが起った。
800年程前の風景だと思う。
あまりに色彩が幻想的だったので今でもしっかり覚えているが、誰にも言わないし、ここにも書かない。
今、20歳になった次男の撮った写真を見ていてそれを思い出した。
次男はアシスタントを努めてくれている、強い人である。                           武吉廣和

武吉廣和の自然釉陶芸(1950・高知県生まれ)



武吉廣和の自然釉の壷シリーズとピラミッドシリーズ


日本独自の自然釉の黄金時代、すなわち中世の穴窯の六古窯の時代、なんとわが土佐には一基も窯が無い。
鎌倉から江戸初期までの四百年間もの窯の空白である。1977年から始まり1987年に検証は終了、「窯の空白の謎」は解ける。それ以後、日本一の陶土と信じる滋賀県信楽の黄ノ瀬土を使って、六古窯の頂点を極める「古信楽」を超える仕事に挑む。

やきもの戦争と言われる豊臣秀吉の文禄、慶長の役で、施釉で燃料効率の良い連房式登り窯と技能者が朝鮮から導入された後、大量の薪と焼成日数を要する自然釉の既存の穴窯は滅び、これまた四百年以上の空白の後、巨匠、加藤唐九郎氏が1930年に復元、人間国宝の荒川豊蔵氏が1933年に復元する。
しかし共に当時の焦点だった志野釉を三昼夜ほどで焼く目的の穴窯で、さらに贅沢な自然釉の穴窯は遥かそれ以降のこと、信楽の自然釉の巨匠、杉本貞光氏の場合1968年に自然釉の穴窯を復元している。

私の陶芸家としての目標は「日本の中世の六古窯を中心とする自然釉の壷群」を「陶磁分野の世界遺産級」として捉え、それを研究し、超えることにある。中国の青磁を超えるスピリチュアルな自然釉がテーマである。

地球の文明は何処から来たのか

7500年前に作られたハラフ式彩文土器という上品で高度なデザインの土器がある。
シリアとトルコとの国境テルハラフの遺跡から発見されたこれらの土器には陶工印が施され、野焼きではなく燃焼室と焼成室とが分離した窯で焼かれている。
また4650年前のエジプト古王国時代のジェせル王の階段ピラミッドの地下に使われている世界最古のタイルは、現代の最新技術であるファインセラミックスという技法で焼成されている。
こうした例はジャンルを問わず存在する。

わたしは20歳の頃から陶芸に熱中、自然釉に魅せられてしまった。
1300度を出せる世界最古の窯、3500年前に中国の殷で生まれた「龍窯」(日本では「穴窯」と加藤唐九郎が1930年に名付ける)の焼成を、31歳での初窯以来、33年間続けている。
その過程で唯物論から唯神論に変わってしまうほど龍窯の衝撃は大きかった。
なかなか短い言葉では表現出来ないが最近古書店で購入した「神誥記」(ひふみともこ記、今日の話題社)のなかに次のような表現がある。
感じ入ったので記す。

・・・さにて地上は浄められ、始めの零から作り直しき。
なれば人類、その元は、神の御霊にありぬれど、地上の文明教えしは、他の星より訪れし者。
宇宙人とも神ともいえど、次元の異なる世界に住める、魂異なる生命なりき。
なれどこの世に同化して、この世に住み着く者もあり。
死にて役目を終えし後、再び戻る者もあり。
神の定めることなれば、その魂の意志にはあらず。 ・・・

 

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