1+4人展 <宮脇賀子・武吉貴子・武吉宣昌・H.T・武吉廣和> |
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期間:2014年 8月 5日(火)〜8月 10日(日) 時間:AM 10:00〜PM 6:30(最終日〜5:00) |
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今回の5人展のギャラリーのある会場「かるぽーと」は2001年に完成した高知市立の複合文化施設である。 1993年、はりまや橋の市民フロアで高知市文化振興事業団主催の「陶芸家 武吉廣和の世界」展開催以来21年程の歳月が経った。2002年の高知県立美術館県民ギャラリーでの「VISION展」以来12年である。 これからの未来を巨視的に展望したい。 長男の宣昌は22歳、次男は20歳、私も64歳、これを機に、妻、貴子の妹である宮脇賀子とともに、 今回の展覧会を開催させて頂く次第である。 武吉廣和 |
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宮脇賀子のアクリル画(1969・南国市生まれ 大阪府在住) | |
円空さんのように、とは出来ませんが。
宮脇理奈 今回のファミリー展は「ママピースのマンダラアートプロジェクト14周年記念祭(宇宙は7進法)」という側面もある。
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武吉貴子のマンダラアート(1960・南国市生まれ) | |
愚の一徹 最初の頃、小学生の長男に「ママのマンダラはショボイ」などと言われていた。 |
武吉宣昌のフェルトアート(1991・四万十町生まれ) | |
ファンタジーフェルト 2012年のかるぽーとでのファミリー展デビュー(右上写真小品5点がその一部)から2年と4ヶ月、変わったことは武吉宣昌の生活パターンが完全な夜型から完全な昼型になったことと、作品がユニットになったことと、繊細な密度、刺繍の色彩がバージョンアップしたことだろう。 毎日、足腰を鍛えるために、作品の資料を求めて裏山のてっぺんにある安産の神様「高の峠様(タカノトサマ)」まで、小さなカメラをポケットに、杖を持って登る。 |
H . T の写真(1994・四万十町生まれ) | |
子供たちが幼い頃、親子でよく宇佐の天皇洲へ渡し船で渡り、アサリ採りに行った。子供たちは歓声をあげて砂地の潮溜まりにとり残されたボラの稚魚やゴリやエビや蟹を追い、結局、服はずぶ濡れになって、最後は裸になって泳いでいた。 3メートルもない小さな木造の櫓舟を借りて櫓を漕いで小さな港を出ようとすると、なかなか思う方向に進まない。早く釣りをしたい私は気がはやり、力まかせに大汗をかいて漕いで進んだ。そのうち陸の方で手を振りながら大声で誰かが何か怒鳴っているのに気が付いた。貸し舟屋さんの大将だった、やっと聞き取れた言葉は「オーイ、碇を上げないかんぞー!」。 春の大潮の満ち潮がはじまると、宇佐大橋の架かる狭い湾口から広大な浦の内湾内に流れ込んでくる大量の海水でそれほどは大きくはないが渦潮ができる。面白そうなので次男と櫓舟を乗り入れると、深く暗い海底から海水が湧き上がり、複雑な模様で盛り上がるようになった水面のうえにさしかかった。 |
武吉廣和の自然釉陶芸(1950・高知県生まれ) | |
やきもの戦争と言われる豊臣秀吉の文禄、慶長の役で、施釉で燃料効率の良い連房式登り窯と技能者が朝鮮から導入された後、大量の薪と焼成日数を要する自然釉の既存の穴窯は滅び、これまた四百年以上の空白の後、巨匠、加藤唐九郎氏が1930年に復元、人間国宝の荒川豊蔵氏が1933年に復元する。 私の陶芸家としての目標は「日本の中世の六古窯を中心とする自然釉の壷群」を「陶磁分野の世界遺産級」として捉え、それを研究し、超えることにある。中国の青磁を超えるスピリチュアルな自然釉がテーマである。 地球の文明は何処から来たのか わたしは20歳の頃から陶芸に熱中、自然釉に魅せられてしまった。 ・・・さにて地上は浄められ、始めの零から作り直しき。 |