奥四万十探訪 鬼才 武吉廣和の自然釉壺展
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祝 奥四万十博  穴窯で赤松30トン、10昼夜の焼成。

期間:2016年 812日(金)〜831日(水) 時間:AM 9:00〜PM 5:00 *木曜・定休日
会場:ギャラリー 龍窯
   〒786-0097 高知県高岡郡四万十町日野地326
  <ギャラリー龍窯 地図>
   Tel&Fax/0880-23-0054  作家携帯/090-4506-0572
   ● 龍馬空港からギャラリー龍窯まで 車で1時間半。
     四万十町中央ICより 車で25分、松葉川温泉 手前1kmに看板あり。

奥四万十の超古代史と1人の中国人

40万年前頃、北から南へ中国大陸を流下し太平洋に注いでいた3本の古四万十川があった。
以後興津ドームという興津の隆起現象で河口への流下を阻まれ、10万年前真ん中の1本が逆流した。
今の四万十川の上流から数えて1号 古四万十川(40万年前不入山から窪川を経て遥か興津沖に注ぐ)と、
10万年前、逆流して合体した2号 古四万十川(現在、窪川から大正・十和・江川崎)の流域が、今回2016年の奥四万十博の舞台となっている。
江川崎から四万十市を流れる3号 古四万十川は2013年の「楽しまんと!はた博」の舞台になった、ちなみに発案者は田中全(四万十市前市長)氏。このような考古学的に正確なゾーニングは面白い。

氷河期は4万年から10万年周期で繰り返され、間氷期はほぼ1万年、今回の最終氷期は7万年前に始まり1万年前に終わる。

今から23000年前の桜島の錦江湾の大噴火で大量に降り積もったAT火山灰の風化したチョコレート色の粘土が1万年という熟成期間を経て奥四万十の縄文 弥生土器の粘土になってゆく・・・そして21000年後に仁井田米を生む田の土になってゆく・・・鉄鍋が普及する1000年前まで、土器が無いと人間はドングリや米を煮炊き出来なかった。

氷河期の最中の16000年前頃から縄文草創期は始まる、そのころは日本列島は、まだユーラシア大陸の一部で、海面は今より100メートル低く、今の瀬戸内海は広い広い草原になっていてナウマン象が草を食べているという想像を絶する風景。

当時の縄文人は沼地や落とし穴に追い込んだナウマン象を有舌石槍や先端に細石刃というカミソリのような鋭い石の薄片を2列に埋め込んだ木の槍で仕留めて、解体して、食べていたとか・・・。
ベーリング陸橋で陸続きになっていた北アメリカ大陸からメキシコにかけても人類はマンモスとマストドンを食べていて、アメリカ大陸のマンモスとマストドンは12000年前頃に絶滅している。

世界最古の土器に関する論文は中国での新発見をも含めて多々あるが、奥四万十の四万十町十和の縄文草創期の遺跡「十川駄馬遺跡」から世界最古の土器、豆粒文土器の土器片が出土している。
その豆粒文土器の年代は今から約13000年前と年代測定されていて、形は縦長の卵のような形の土器に小豆の粒のような大きさと形の粘土粒を点々と貼付けている。復元して、ドングリ粉と山芋をこねて団子にして猪肉と一緒に煮炊きしたときの感想は「指先で丸めた粘土ツブを貼って合理的にすべり止めを施した」ように思った。

続く隆起線文土器は12000年前と年代測定されている、現在、考古学の時代区分は土器でやっており、ゆえにあいまいもこで、まさに流動的だが縄文草創期に次いで縄文早期がいつ始まるかもネット上でも混乱していて我々素人には分からない、これじゃ教科書もつくれない・・・ざっと見て縄文早期に入った1万年前頃に海面が100メートル上がり、縄文早期の押し型文尖底土器は8000年前ということになる。
西暦2001年5月に突然出現した大規模遺跡、窪川の五社様の前、四万十川本流に仁井田川が合流する「根々崎五反地遺跡」から押し型文土器片が出土している。
つまり、海面が100メートルも上昇する今回の最終氷期の環境激変期をまたぐようにその前後の土器片が奥四万十から出土していることになる、全く出土しない土地とは違い、その土地の「人間の生存の確かな証拠から見える、地の利のありよう」への期待が少しは持てるように思う。

7300年前の鬼界カルデラの大噴火で降り積もったオレンジ色の火山灰がアカホヤ火山灰で、奥四万十はもちろん西日本の縄文人は全滅するが、窪川でも場所によっては1メートルの深さにさえなるこの層の下にはチョコレート色の23000年前のAT火山灰由来の火山灰質粘土層がある。つまり、噴火のたびに火山灰は洗い流されて同じ場所に溜まる。
縄文時代の時代区分であいまいでないのはこのアカホヤ火山灰という7300年前という縄文時代区分指標だけ、これで縄文早期にリセットボタンが押され、次の縄文前期がはじまる、そして縄文前期には温暖化で縄文海進という最大6メートルという海面上昇が起きり、いまの関東平野は海となる、高知市も海、土佐山田は危うくセーフというところか。

こんなことを書いていると、核戦争参入に傾くいまの我々日本人は地球霊王から7300年前のようにリセットされるのでは・・・と思うこともある。
ここ一帯の奥四万十は興津ドームの隆起のおかげで標高200メートル前後の肥沃な高地平野が生まれ、太平洋プレートに乗ってせり上がって来た四万十帯と呼ばれる水成岩の地層とAT火山灰、そしてアカホヤ火山灰によって高南台地という穀倉地帯の土壌の基礎が出来たことになる。

そのような時代を経て、3500年前頃ちょうどモーゼの出エジプトの頃の縄文後期には面白い人物が登場する。
その人物は青銅器を知っていて、鳥取県に上陸して愛媛県の四国中央市(小松川町)に至り、さらに彼は水系伝いに鮎を食べつつ四万十川沿いを移動、さらに吉野川沿いに四国の中心高知県本山町に至り国を興したように思う。
彼は奥四万十をも旅をしている。川口遺跡と根々崎五反地遺跡から彼の焼いた松ノ木式深鉢片が出土している。
実際このサイズの松ノ木式深鉢で猪汁を煮炊きした結果、一個の深鉢で50人程度が一度に会食したように思った。
3500年前当時、50人程度の人々が「祭祀」に集まったということだろうか。
彼の文明は突出していたがゆえ、彼の死後松の木式は消え去り、従来の凡庸な縄文土器に戻る。

松ノ木式という土器様式は発掘調査報告書の、二重口縁の2本のラインから曲面に展開してゆく取っ手部分の図面を見ても、最初、一体、何がどういうことになっているのか分からなかったほどで、復元するのは結構楽しめた。
復元作業で感じたことは、3500年前、日本と中国は行き来があって「祭祀」に使用する青銅器を知っている殷の人間?が山陰に上陸、青銅器の雄型を粘土で制作、雌型を制作して溶かした青銅を注入するまでには至らず、青銅器をコピーした土器で代用したのではないのか・・・。
私の龍窯は1300℃を出せる世界最古の窯で、以下の写真のような松ノ木式深鉢と同じ頃、3500年前の殷で生まれた。

 

     
山陰地方出土   愛媛県西条市小松町
小松川遺跡出土
  愛媛県西条市小松町
小松川遺跡出土
  高知県高岡郡四万十町
川口遺跡出土
             
     
高知県高岡郡四万十町
根々崎五反地遺跡出土
  高知県長岡郡本山町
松ノ木遺跡出土
  高知県長岡郡本山町
松ノ木遺跡出土
  高知県長岡郡本山町
松ノ木遺跡出土

 

 

 

 

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