艮の金神展
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穴窯で赤松30トン、10昼夜の焼成。

期間:2017年 6 16日(金)〜7 23日(日) 時間:AM 9:00〜PM 5:00 *木曜定休日
会場:ギャラリー 龍窯
   〒786-0097 高知県高岡郡四万十町日野地326
  <ギャラリー龍窯 地図>
   Tel&Fax/0880-23-0054
   作家携帯/090-4506-0572
   ● 龍馬空港からギャラリー龍窯まで 車で1時間半。
     四万十町中央ICより 車で25分、松葉川温泉 手前1kmに看板あり。


青梅の季節になった、妻は青梅ジャム作りに夢中である、完熟梅ジャムまで梅ジャム作りはまる一ヶ月続く。
私はニワトリたちに食事を作って持っていったあと、テラスであぐらをかいて、初夏の山々の青葉を眺め、アカショウビンの鳴き声を聞きつつ、鋭いデザインカッターの先で青梅の小さなヘタをピーンとUFOのように遠くに飛ばし、反対側にある極小のヘソを除去する役目。

世にも珍しい「艮の金神」の写真

鎌倉時代の明恵上人が書いた「夢の記」というのがある。
それは京都栂尾の高山寺での霊夢の色彩鮮明かつ詳細克明な描写である。
仏師が仏像を彫る前に夢で様々な如来あるいは菩薩を細部にいたるまで鮮明に観る「観仏」という厳しい修行があるが、まさにかくありなんと、この夢の記録を読めば合点がいく。
私にも似たようなことがある、ありありと夢で観て強烈な印象が雲散霧消せず、そのままのパワーが持続し、この世に物質化出来ることがある。

日本の植民地化を計画するイエズス会排除のために徳川家康が作った仏教の檀家制度で日本の仏教僧は定住妻帯するようになった。
そういう時代になっても、身にまとうものは冬も墨衣一枚で、五穀を断ち、さらに十穀を断つ木喰行をなしつつ、飢饉に襲われ荒廃した村々をまわり人々を救済し、仏像を刻み、その時がくれば自分で墓穴を堀り、入定する木喰上人たちのような極めて異例な存在の系譜は続く、入定は空海に始まるが最後の入定は明治時代に今治の仙遊寺で記録されている。
明治維新の神道興隆では廃仏毀釈が行われ、神官の人数が足らず、僧侶が強制的に神官にされた。

しかし、鎌倉時代は仏教の興隆開花期である、モンゴルの侵入から逃れた、文化レベル当時世界一の宗の名僧が渡来してきたこともあって、鎌倉時代の精神文化レベルは極めて高い。
「陶は政(まつりごと)をあらわす」といわれるが、これは穴窯で焼かれた自然釉の壷にも言える。奈良平安時代の須恵器と異なり鎌倉時代の壷は純日本と言える平底で難易度の高い強還元焼成が成され、そのままパワーを高度な炭化冷却で固定している。
燃料の松薪節約により酸化炎焼成に傾き自然釉が淫らに酔った室町時代のような野方図な焼成は無い。
そして江戸初期には自然釉の壷は日本から、そして日本独自なので当然地球上から消滅した。

私のミッションは3500年前の殷の神政下での神の窯・龍窯と呼ばれた穴窯誕生期の謎の解明で、江戸初期以来400年間の忘却の時を超えての、鎌倉時代の自然釉の体系的完成である。

陶芸ブームと高度成長により1970年頃から始まる金のかかる穴窯復元レースも、わずか20年後、1990年のバブルの崩壊であえなく終わり、1997年の一流百貨店の美術画廊の一斉リストラで販路を断たれ止めを刺される。
1984年に「陶説」に紹介してくださった日本陶磁協会理事の小松正衛先生に私は「妥協出来ない性格」と看破されたが、レースの「場」自体が消滅してしまった後も「まだこんなことをしているのか」と言われつつも妥協せず、ひとり奥四万十にこもって研究を続行、神世紀元年の2001年正月の窯で目出度く自然釉の体系的完成期に入る。

2005年の5月、S・Nさんが撮った、曰く、「なんか恐ろしいモノが写り込んきた写真」がトップの窯焚き遠景とこのページの3枚の窯本体の写真。
今まで、霊的な人々からは「この写真に写り込んできた極めて異様な存在は、心配するようなものではありません、金色なので神様に間違いないです。」とまでは異口同音に告げられたが、神様の特定、すなわち「審神(さにわ)」する人は現れて来なかった。
審神というのは神様にとっても霊的な人にとっても重大責任事なので皆うっかりしたことは言わない。
神がかりした人から審神を命じられて出来ず「出直しじゃ(死んで生まれ直してこい)!」と怒鳴られ、その場で本当に死んでしまった神官さえいる。

しかし何事にも解け時期といものはあるもので、写真に写り込んでから12年の歳月が流れた先日、Hさんという方が、拙宅玄関のギャラリー龍窯の「春爛漫展」においでてくださり「神様からの伝言」を伝えてくださった。
「鹿のラードの石鹸を赤松の灰で作りなさい。」というのが神様からの伝言で、私は確かに融点が高くて料理に向かない鹿のラードを精製して大量に貯め込み、苛性ソーダを薬局で購入して石鹸作りの準備をしていた、そしてそのあとに、さらっと言ってくださった。

「あの写真に写っているのは、あなたが思っている「金龍」ではなく「艮の金神(うしとらのこんじん)で国常立大神(くにのとこたちのおおかみ)です。」

〈艮の金神 〉

1892年(明治25年)2月3日から京都綾部市本宮町の文字を知らない大本教開祖・出口直に半紙20万枚に及ぶ、「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神(国常立大神)の世になりたぞよ・・・」から始まる「お筆先」を書かせた神が艮の金神。

この艮の金神の正体を、この地球世界を最初に造った国祖である国常立大神(くにのとこたちのおおかみ)であると審神したのが上田喜三郎で後の大本教聖師・出口王仁三郎。

出口王仁三郎は「今度の戦争(第二次世界大戦)は悪魔と悪魔の戦いじゃ!大本は協力せんわい!」と言って徹底弾圧された。
裁判で無罪になっての出獄直後、1945年元旦から翌年3月にかけて、なんと3000個の楽焼き茶碗「耀碗」を制作している。

私は窯場放浪中の1974年、24歳の時、亀岡の大本教本部で20点ほどの耀碗と水指を観せて頂いて以来、「光悦茶碗以上で、宇宙の本質の物質化に成功している陶芸」として、以来ずっと目標にしている。
この写真が写った2005年という年は私にとって極めて重要な転機の年で、毎回、虹と彩雲に導かれた不思議な経験がある。
そして今も続いている。

1944年6月10日から千葉県成田市の麻賀多神社の敷地内の天日津久神社で大本教だった岡本天明に自動書記で謎の文字からなる「日月神示」を降ろした神も艮の金神・国常立大神と言われている。
日月神示の概略は「世の中の九分九厘が悪神の天下になったときに、最後の一厘で神業が発動され、大どんでん返しがおこり、世の立て直しが一気に始まる」というもの。


 

 

 

 

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