オリエンタルと呼ばれる自然釉の壺展 自然釉陶芸家 武吉廣和 閉じる
穴窯で赤松30トン、10昼夜の焼成。

期間:2018年 3 24日(土)〜 5 6日(日) 時間:AM 9:00〜PM 5:00 *木曜定休日
会場:ギャラリー 龍窯
   〒786-0097 高知県高岡郡四万十町日野地326
  <ギャラリー龍窯 地図>
   Tel&Fax/0880-23-0054
   作家携帯/090-4506-0572
   ● 龍馬空港からギャラリー龍窯まで 車で1時間半。
     四万十町中央ICより 車で25分、松葉川温泉 手前1kmに看板あり。

あなたに予言の才能を与えよう。 しかし人は信じないだろう。
−アポロンはトロイの王女カッサンドラに言った。
【 自分が68歳になっての過去の予言とか占いについての窯辺雑記 】
〈白龍の壷の背景写真は我が家上空のUFOが雲に化けている写真です。〉

1、 3歳 だれもやれんことをやる−易者

今は亡き母が語ってくれた思い出話。 私が3歳かそこらの頃、街角で易者が母を呼び止めて、「なかなか面白い児を連れちゅう。 ちょっと私に見せなさい、見料は要らんから」というので前に連れてゆくと、しげしげと観察して「この児は誰もやれんことをやる。 ようなったらとことんようなる。 悪うなったらとことん悪うなる。 育て甲斐のある子じゃ。」
母:「とことん悪うなったらいったいどんな人物になるのですか?」
易者:「石川五右衛門みたいになる。 しかし、そんなに心配せんでもええ。おそらくそうはならんじゃろう。」

2、 24歳 結婚は40歳−四柱推命

1974年、早稲田大6年目24歳になったばかりの春、松声会という16校の大学陶芸クラブの連絡会をやっていて、中央大から「島根に面白い辰砂を焼く窯がある」という情報で弟子入りした。
学生時代、普通の釉薬の研究はもう終わって、難易度の高い、強還元炎焼成の辰砂釉を研究していた。
休学届けを出し(1年間の授業料が半額になる)、美術研究会の窯のある早稲田の第一学生会館の事務室に挨拶に行った。
当時、第一学生会館4階の会津八一収集の中国美術の倉庫を不法占拠し、交渉して使用が許可され、灯油窯を焼いていた。
その後、核マルの新聞部が2、3階を占拠したので、24時間解放区となっていた。
4階の窓から火が見えるとか黒い煙が出ているとかの通報があるたびに何度も血相変えて消化器を抱え階段を駆け登って来たのが学生課のSさんで、強還元焼成の炎や、炭化冷却のもうもうたる黒煙の中「また君か!」という言葉を聞いた。
学園闘争中のバリケード封鎖が日常という時代とはいえ、やりたい放題の窯ぐれ学生で随分迷惑をかけた。
四柱推命に精通するSさんが、観るから明後日にもう一度来なさいと言ってくれた。
後日、「きみの結婚は40歳。 私は茶道をやっているので記念に茶碗をひとつ焼いてくれないか。」と言った。
私には40歳が信じられず「そうですか。」と言って辞した。
そして茶碗を焼き、心のこもった御餞別を頂き、頭をツルツルに剃り、島根の窯に向かった。
途中、どんな山奥にも山桜が白く咲くのが車窓から見えた。

3、 24歳 あなたは困ってない−薬剤師 易・姓名判断  左手で生きなさい−伊藤先生・手相

島根の石見銀山の温泉津(ゆのつ)は今や世界遺産になったが、当時はまだ鄙びた温泉街だった。
入門して三ヶ月半経った頃、私は師匠に「こんなことをやっていたら産業ロボットにやられてしまいます。」と言って破門された。
私は、日曜日は安来の足立美術館で魯山人と河井寛次郎のコレクションを見、松江の島根県立図書館で小山富士夫の、戦時中、軍の護衛のもと発掘した、中国陶磁の名窯の古窯趾探索発掘報告書「陶器講座・北宋」や中世の六古窯の発掘報告書や柳宗悦の「木喰上人」等々を精読していた。
兄弟子のKクンが「薬屋の薬剤師はすごい潔癖症で温泉の共同浴場にも絶対に入らないが、占いはズバリ当たる・・・あるとき、観てもらっていた元暴力団の男が号泣したそうな。」と言って、これから先のことを相談してみたらどうだろうというので行った。
私:「破門されて、これから先どうしていいのか困っているのですが?」
薬剤師:(私に生年月日と名前を書かせたあと、ゼイチクをジャラジャラっとやって)「地雷復(ちらいふく−試行錯誤して善に帰る)ね!あなたは困ってない!大学に帰りなさい。 数ヶ月前から、坊主頭で店の前を通るのをここから眺めてこわーい人と思ってたけど心の中は紳士のなかの紳士ねえ。ウーン、すごく運が強いわねえ。人生の要所要所でなにかあっても必ず女の人が助けてくれる。 これからもバーンといきなさい。」

元湯の長命館という旅館に投宿して親から現金書留が届くのを待った。
届くまでの3、4日、海水浴に行った。ちょうど夏休み期間中で家族連れがいっぱい楽しそうに遊んでいる・・・将来への不安で鉛のように重い心と正反対の楽しそうな海水浴客、「よしっ」と気分転換し、自由を満喫しようと楽しく泳いだ。
翌日になると空腹で泳ぐのがしんどくなったので浜から後退して木陰で肘枕して海のほうを眺めた。
すると、碧空と海と山がだんだん強くなってくるのに気がついた、これは面白いと思った。
次の日はさらに恐ろしいぐらい大音量で蝉の鳴く緑の夏山が色を濃くして迫ってくる。
絶食しているので、食べ物への抑えきれない欲望が湧いてくるのかと思ったが、全然湧いて来ないのには驚いた。
人間はこうしてだんだん体力が弱るにつれ、逆に生気漲る自然が強くなるだけのことなのだ。
人生の目的達成の後、全てをOFFに出来る境涯であれば、静かに死んでゆけるのだと理解できた。

温泉津という土地は精神文化レベルが高く、妙好人として有名な下駄職人・浅原才市の存在に加えて、木喰五行の木喰仏が2体、大切に伝承されていた。
江戸時代の富士山噴火や飢饉のさなか、木喰上人と慕われた僧侶たちの一人が木喰五行である。
彼は五穀を断ち、木の芽や木の実を食べ、そば粉を水に溶いたものだけを食す木喰戒を守り、冬でも墨衣一枚で旅をして、日本全国を巡り困窮疲弊した農民たちの為に木喰仏と呼ばれる仏像を刻み、92歳で入定している。
楽しい海水浴の数日間の絶食は、木喰五行の即身成仏を、ほんの少しだけ窺い知ることが出来、もう死は怖くないと思った。
9歳頃から「人間は死ぬとどうなるのか?」と悩み続けた私にとって必要なことであった。
「身を捨つる 身は無きものと思う身は 天一自在 疑いも無し」 −木喰五行の歌。

その数日間のある夜、宿に帰ると長命館の主・伊藤先生がとっておきのスコッチウイスキーをすすめてくれ、「一緒にあやまりに行ってあげるから・・・」と言ってくださったが辞退させていただいた。
伊藤先生は若い頃セツルメント(貧民救済運動)を学びにイギリス留学をされた方で、町長のとき港の改修工事を提案したが反対されたので私財を投じて改修工事を完遂させたという方、郭沫若とも親交があった。
最初の出会いは長命館の薬湯の番台だった、番台から眼鏡を下げて見上げ、長い間本当にじろじろ見たので変なイヤな爺さんだなあというのが初印像。浴槽に入るとびっくり、あばらが浮いた病人ばかりでまるで地獄絵、底には赤茶色のヘドロのようなヌルヌルしたものがあり、タオルは一発で茶色に染まった。
「どうしてヘドロのようなあんな汚いものがあるのか。」と風呂から出て番台の爺さんに文句を言うと、「うちは病人を治療するための湯治場、あれが病気に効くんじゃ、濾過して澄んだ温泉がいいなら周囲にある観光温泉に行きなさい。」その爺さんが伊藤先生だった。
いつだったか警察署長と彼の幼い娘さんとで窯場に遊びに来たとき、「手相を観てあげる。」というので両手を出した。
右手を観て少し顔を曇らせ、左手を観て喜んだ、そしてひとこと言った「左手で生きなさい」。

4、 27歳 自分の予知能力? 窯場が分かる

1977年の暮27歳の時、父と一緒に窯場探しの途中、ニューギニア戦線での父の戦友が経営していた窪川町役場前の高南不動産に立ち寄った。 そこに勤める田井集さんの言葉「うちの日野地の土地はどうじゃろう。松葉川温泉も2年前に出来たが。」ということで田井さんに案内され見に行った。
窪川は本籍地で田井さんの娘婿さんと父は義兄弟にあたる、つまり田井集さんとは親戚。
四万十川本流を遡行中、米奥を過ぎて、常緑樹のびっしり茂った緑のトンネルのような木々の間から深い淵がちらっと見えた。
その瞬間、何かの匂いを一瞬思い出すように、何十年か先の、闇を明明と照らす灯台のイメージが浮かび、自分の窯場がこの先に有ることがはっきりと分かった。
そして現在地の傾斜20度の山林300坪を即決購入した。
当時の私なりの窯場の条件は、南あるいは東向き、傾斜20度、上昇気流で焚き、上の大木で反射する・・・というもの。
ブルドーザーでの土地造成が完了したのが1978年の3月2日、ひな祭りの3月3日朝にはきれいな平面一面に3センチの雪が積もった、美しかった、嬉しかった。
竹薮の孟宗竹の葉っぱまでもが喜んで眩しくキラキラ輝いていた。
そして、小さなロクロ場を建て「武吉廣和工房」を開窯した。

それから40歳で結婚するまでの13年間、夜になれば欅の蹴ロクロに3枚の小さな板で蓋をして、真冬でもその上で夏用の薄い寝袋にもぐりこんで寝るのが大好きだった。
窓から金星が見え、嬉しくて真夜中にひとりで呵々大笑した。
冬の最も寒い2月は朝4時から3時間ストーブをつけるが、これは、ロクロ挽きの作品の凍結を防ぐためという生活だった。
春が来て、足の指先の紫色の凍傷がだんだん皮膚表面に浮いて来て褐色の硬いカサブタになってとれると「春になったナア」。

5、 41歳 過去世は陶芸の頭領 51歳で完成期に入る−古神道・T先生の予言

里見さんの四柱推命での「きみの結婚は40歳」という占いは、なんと的中し、40歳で結婚した。
翌年の1991年にはT先生から「おまんは他の陶芸家を見て、負けると思わんろう」と言われた。
「よく分かりますねえ、何故なんでしょう?」と言うと、「おまんは過去世でずっと陶芸をやってきちゅう。
そしてそのたびに頭領やったからや。 それも神道系。」ということだった。 神道系とか仏教系とか陶芸にあるのか?と思った。 このT先生は過去世で役の行者の弟子だったという人で、妻が家業を手伝うなか、いろいろ相談してきた先生だった。
私も妻・貴子と結婚して、家を建てるとき、井戸を掘るとき、子供が生まれて名前を付ける時等々、妻と一緒に、いろいろ相談させて頂いた、そして4年間で卒業した。

あるとき私の運転する車の助手席で何かを見ながら「あれはいったい何じゃ?」と問うので「あれは養鶏場です」と答えた。
見て分かりそうなものなのに・・・と思った、さらにブツブツ言い続けるので問うと、なんと高速走行の車窓から一軒一軒の家のオーラを霊眼でつぶさに観ていると答えたのには驚いた。
子供の名付けでは名前を付けて頂き、土曜日曜を経た3日後に電話があり、「まさか、まだ役場には届けてないろうね?夜中に、反対じゃ反対じゃと神様からの声が聞こえた、いったい何が反対じゃろう・・・と考えよって、今やっと分かった。
付けた名前の漢字が上下反対じゃ。」ということもあった。人間は名前を持って、親を選んで、この世に生まれて来るということだった。
家を建てるにあたって、井戸を掘ることにした。
「井戸を掘りたいのですが、何処を掘ればいいでしょうか」との私の問いに、敷地内を歩き、不思議な目で裏山の空のほうを見上げてそれから地面を指定し、「ここしかない、28メートル下に水脈がある、黒く硬い岩板の下じゃ、100年前の雨の水。」
依頼したボーリング業者は「今までいろんな所をボーリングして来たが、勢いがある人には水が出る、勢いが無い人には水は出ん。 こんな山の斜面を掘って水が出るろうか?」としきりに疑うので、「黙って34メートル掘ってくれ、水が出んでもボーリング代300万円を支払うから。」と言って掘ってもらった。
ボーリングを続けると1週間ほどして硬く黒い岩盤に当たり、なかなかドリルが進まなくなった、そしてボーリングの穴から突然大量の泥水が噴出した、ぴったり28メートルだった。
T先生に「なんで空をみて地下の水脈が分かるのですか」との問いの答えは「地下に水脈があると、空中にうすーい霧のような水の精のようなものが見える。」
そしてT先生は私の未来の予言もしてくださった。 「おまんの完成は51歳!」私が「私の仕事は51歳で終わるということですか」と言うと「そうじゃない、51歳から仕事の完成期が始まる」とのことだった。

6、 51歳 ワンネスの体験で完成期に入る

49歳の夏、富士山での、小惑星の軌道を逸らすための8時間の祈りの終わった直後、神様から割れ鐘のような「今日のことは忘れまいぞ。」という声を聞いた。
これには驚いた。 まさに心の内側からで、涙が溢れ、号泣した。
その後、「21世紀になれば、光のないものは一点も売れなくなります、あなたのこの作品には光があります」と、個展会場においでたある人物が言った。
2000年元旦前後10昼夜の窯焚きは、ものすごい苦痛の窯焚きで、「水の王」がとれた。
翌2001年元旦に火を入れた51歳の窯焚きで「火の王」がとれた。
この時、初窯から20年間かかった順列組み合わせの焼成実験の全行程が終った。

27歳で帰高し独立開窯、土探し、窯場探しから始めて独学で鎌倉時代の穴窯を設計、復元築窯、自然釉焼成方法の体系的完成をみるのに24年間かかったことになる。そして艮の金神・国常立大神で有名な日月神示の「富士の仕組み」と「鳴門の仕組み」の修行行程が修了した時期もこの期間にピッタリ重なっている。
仕事面と精神面は手のひらの表と裏のように表裏一体なのだと思う。

この2001年の窯焚きでは10昼夜の重労働なのに疲労感が全く無かった、そしてパイロメーター(窯中に先端を差し込んで計測する高温温度計)の温度が一定、つまり、窯を焚く人が交代したり、天候が変わったりするので通常ノコギリの刃のようにジグザグに変化する温度曲線がまるでロックされたように奇跡の一直線、そして、宇宙との甘美な一体感に浸った。
焚き終えていつものように窯の前でクルー全員でカレーを食べ、それぞれにギャラを手渡して解散する。
その時、帰り際に弟が言った言葉「今度の窯が凄いことは窯を開けんでも分かる。 俺にもわかる。」

そして夜一人になっての緊張する冷却操作後、火の用心のために、柱の根元に3時間おきに水を掛け、毛布を何枚も重ねたボンボンベットで安全靴を履いたまま、窯のほうに意識と顔を向けたまま、心地よくうたた寝しながら「雪の封印がほしい・・・」と思ったとたん漆黒の夜空に白い花びらのようにしんしんと雪が舞い始め、夜が明けると積雪30センチの銀世界だった。

7、 55歳 来日したフランスのマルモッタン美術館館長 ジャン・マリー・グラニエ氏の言葉

これらの壷は、古いもののようではあるけれど、
古いものを研究し、超えて、作家独自の世界を構築している。
今までいろいろなものを見てきたが、これほどスピリチュアルなものは見たことがない。
お金持ちに右から左に売れるというものではないが、
これが分かる人は、私のまわりに少しは居る。

 

 

 

 

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