陶芸に熱中したのは20歳、大学紛争の最中、陶芸サークルに入ったのがきっかけだった。
あの時代は、荒川豊蔵氏も加藤唐九郎氏もまだ健在で、日本橋三越などの個展には毎日通った。
青山グリーンギャラリーで毎年開かれていた加守田章二氏の新作展、
魯山人の最初の回顧展も印象深い。
正月も帰省せず第一学館の煤けた部室で窯を焚いていた。
当然、留年に留年をかさね、そのまま窯場回りの旅にでた。
24歳の時、京都、亀岡で出口王仁三郎という人の「燿碗」を観て人生の方向が決まる。
1978年、28歳、高知県四万十町の現在地に独立開窯。
以後、穴窯による自然釉の仕事を発表し続ける。
2001年、本格的自然釉の体系的完成をみる。

森陶岳が復元した85mの古備前大窯についての武吉廣和の小文

龍窯(ロンヤウ)にはいろいろな系統と種類があって一筋縄ではいかない。
荒川豊蔵のこんもりした風情のある志野の穴窯も龍窯なら加藤唐九郎の勇壮な穴窯も龍窯である。
森陶岳が復元した全長85mにおよぶ古備前大窯も巨大な龍窯である。

丹波の蛇窯はその長い外観から、龍窯と間違われるかもしれないが隔壁があるので唐津系の割竹式登り窯の系統であろう。つまり直炎式の長大な龍窯が倒炎式の連房式登り窯に移行する過渡期の形態だと思っている。

3500年前に殷でうまれた世界最古の窯のひとつである龍窯は、生まれた当初は長さ5mほど、たっぷりと掛った自然釉が確認されることなく、すぐに灰陶(カイトウ)という名前の、灰釉が施釉された陶器が焼かれる、合理的思考の中国に自然釉は無いように思う。 しかし、フランスのノルマンディ地方の本格的自然釉(酸化冷却)の陶器も散見されるので今後の窯跡の調査に期待したい。

後漢の西暦100年頃、越州(浙江省)の上虞で窯床10m(赤松の炎の長さ)の龍窯でオリーブ色の世界初の青磁、越州青磁が焼かれたことが確認されている。

その後、5世紀に龍窯は窯床8m(雑木の炎の長さ)というかたちで百済の滅亡とともに日本へもたらされた。須恵部という集団により奈良、平安時代まで青磁と同じ還元焼成、炭化冷却という焼成法で、無施釉の、そして稀に自然釉のたっぷり掛った須恵器が焼かれた。

須恵部は当初、天皇あるいは貴族の特級公務員のような集団であったと思う。
それが、天皇中心の律令制から鎌倉幕府のような封建制に変わる過程で製陶業の陶工となってゆく。
おもな産地は平安時代末に始まる猿投(窯床10mの龍窯が確認されている、灰釉の古瀬戸)や鎌倉時代の常滑、渥美、備前、丹波、越前、室町時代の信楽等の自然釉の六古窯である。

室町時代以降、産地間競争と政治制度により大量生産と薪の効率化を計るため、中世の龍窯(穴窯)は大型化を計る。分炎柱を設けて焼成スペースを広げ、あるいは双胴に、あるいは長大化してゆく。
当然、長くなれば、当初の焚き口から火足が届かなくなるので窯の途中から薪を投入する、その薪を燃焼させるために必要な酸素が下部の穴から窯内に供給され、効率良く燃焼する。

しかし、それまで確保出来ていた強還元という窯内雰囲気は対流により漏失し、大なり小なり窯内の作品を酸化させてしまう結果となる。あとで強還元をいくらかけても後の祭り、一度濁った自然釉は、もう元に戻らない。
最下部の焚き口に溜まる膨大な量の燠もあらかた消失し、焚き終えた後、炭化冷却はもはや意味をなさないし、出来ない。
埋蔵金のなくなった国家のように、もはや酸化冷却という限られた選択肢しか残されない。

この問題は秀吉による文禄、慶長の役で朝鮮から導入された連房式登り窯ではさらに大きくなる。
そして長大な龍窯よりも、施釉の長大な連房式登り窯はさらに効率的。当然、龍窯は連房式登り窯によって滅ぼされてしまう。

しかし、芸術(浪費の別名)という視座で窯という存在をとらえると、古代中国で龍と神とは同じことから、龍窯は神の窯という意味になる。
これは言い得て「妙」である。還元焼成、炭化冷却という贅沢でスピリチュアルな焼成をするには上記の理由で窯床10mの鎌倉時代の龍窯(穴窯)が適う。

古墳時代から奈良、平安時代にかけての、底の丸い、招来文化の須恵器が、平安末から鎌倉時代になると、純日本と感じる壷に変わる。
しかし、須恵部という先端技術者集団の祭器をつくっていた世代はまだ指導力を失わず、祈りのオーラは残照と言えるにしてもまだ輝いている。
須恵器の頃よりも焼成温度は遥かに上がり、濡れそぼつほど、たっぷりと緑色の自然釉がかかる。
まるで青磁の掟を守るかのように緊張して贅沢な「還元焼成、炭化冷却」が続けられている。

現在、私をはじめ世界中の陶芸家が森陶岳氏の85mの古備前大窯の復元、焼成という地球規模の壮大なPROJECTを固唾を呑んで注目する。
この40年間、森陶岳氏自身は、巨大龍窯を総括する唯一の存在として、すごい圧力を体験され続けた。5年後には空前絶後のイベントとなろう。

このプロジェクトでは、酸化が悪いことでも還元がいいことでもない、プロセスのなかで起る現象のひとつにすぎない。

途方もない燃焼圧力と陶土の焼結の問題等、様々な体験という、冒険大陸を歩む。そこでは、空を飛ぶことも、大海原を泳ぐことも、大地を駆けることも、それぞれに、よしとされる。
                                2010年7月7日 武吉廣和


陶 歴
1950/3
1975

1977
1977/10
1978

1981

1982/11
1983/7
1984/11
1986/6
1988/11
1989/6
1989/12
1991
1991/6
1992/2
1994/2
1995/3
1997/9
1998/3
1999/3
1999/4
2000/8

2002/7
2002
2003/7
2004/1
2004/4
2004/4

2005/5
2005/9
2005/9
2008/10
2009/ 1
2009/ 2



2012
2013
2014

高知県生まれ 土佐高等学校卒業
早稲田大学理工学部 建築学科 中退
各地の窯場を巡訪の後、熊本(現在・佐賀)の小川哲男氏に師事
帰省、土佐市高岡の久武篤介氏の許で試験窯を築き、土と窯場を探す。
個展 高知市 高知新聞画廊(以後1980年迄5回開催)
高知県高岡郡窪川町(現在、合併して四万十町)日野地326に築窯 独立
1988年迄10年間、土佐の陶土だけで作陶。 個人作家 無所属
土佐山田町(現在、合併して香美市)の林谷古窯址(須恵器の窯)を参考に
鎌倉時代の穴窯を築き、土佐における、中世の窯の空白の謎に挑む。
個展「古土佐の世界」西武百貨店高知店(以後1986年迄4回開催) 
個展「古土佐の世界」西武百貨店高槻店美術画廊
個展「古土佐の世界」西武百貨店池袋店・ガレリア・粋
個展「古土佐の世界」倉敷市 ギャラリー[幹](以後1992年迄4回開催)
個展 高知市 ギャラリー・パン(以後1992年迄3回開催)
個展 三越百貨店大阪店美術画廊(以後1991年迄3回開催)
個展 高知市 ギャラリー・ファウスト(以後1998年迄3回開催)
高知県立美術館の照明陶を制作
個展 高知市 太郎冠者
個展 南国市 ギャラリー・オルソン(以後2003年迄12回開催)
「陶芸家 武吉廣和の世界展」 高知市市民フロア 高知市文化振興事業団主催
個展 高知市 星ヶ岡アートヴィレッジ(1996年にも開催)
個展 宇和島市 保木口邸
個展 天満屋岡山店美術ギャラリー
個展 芸西村 「考える村」 考堂(以後2002年迄に4回開催)
「ガイアピラミッド展」 横倉山自然の森博物館
「ガイアピラミッド展」 窪川町 ホテル松葉川温泉(2001年と2回開催)
窪川町立美術館設立にあたり作品寄贈
「VISION展」 高知県立美術館 県民ギャラリー (自主開催)
松ノ木式縄文深鉢群の創造復元展 高知県立埋蔵文化財センター
個展 春野町 ギャラリー「和楽」(以後2006年迄3回開催)
個展 佐川町 カフェテラス・エーワン(以後2006年迄に4回開催)
ピラミッド展 窪川町 ギャラリー・龍窯(開催続く)
国際「ありがとうマンダラ」コンクール展 審査員
主催:土佐山田町立美術館(現香美市立美術館)・ありがとうマンダラの会
個展 愛媛県三間町 ギャラリー・松下遊塾
「九条の風を吹かそう美術展」高知県立美術館 県民ギャラリー
個展 高知市 ギャラリー サンテ(以後2008年迄4回開催)
個展 大阪 NAYA MUSEUM
須崎市立横浪小学校6年生15人の縄文土器づくり展
刈谷我野遺跡の尖底土器復元展
企画:武吉廣和
主催:須崎市立横浪小学校・武吉廣和の縄文土器研究所
場所:高知県立歴史民俗資料館1階フリースペース
「武吉宣昌・宮脇賀子・武吉廣和・+展」 高知市かるぽーと
個展 高知市かるぽーと
「宮脇賀子・宮脇理奈・武吉宣昌・H.T・武吉貴子・武吉廣和展」 高知市かるぽーと