陶芸家 武吉廣和 長崎太郎の眼と岡倉天心の眼   閉じる
第1章
高知県の陶芸家
第2章
俺たちの青春
第3章
遠野の加守田章二、
    安芸の和太守卑良
第4章
青い水墨画
第5章
長崎太郎の眼と岡倉天心の眼
第6章
個人作家
第7章
妻との出会い
第8章
結び 長崎太郎の残したもの
 
第1章 高知県の陶芸家
2011年4月1日から10日まで高知市のおびさんロードで「武吉廣和の自然釉の世界展」という個展をした。3.11のニュース映像を見ながら衝撃を受け、個展の延期までも考えたが「将来、被災地でギャラリーが復活した時が復興が成った時、こういう日本人一人一人の心が津波に洗われている不安動揺の時こそ芸術の出番である」との判断で、今までどうり自費でポスターとフライヤーを制作して全力で開催した。
いつも個展会期中にはさまざまな人々との出会いがある。妻との出会いは案内状が手違いで1枚も印刷出来ず、来客はほとんどゼロという39歳の個展だった。毎回とんでもない経緯で「運命の出会い」が突然訪れる、油断できない。
おびさんロードのギャラリーでの個展でも、Sさんというカクシャクとした御高齢の女の方がみえた。陶芸の話をするうちに彼女から2008年に64歳で亡くなった高知県ゆかりの陶芸家、和太守卑良(有名人物、以下敬称略)の高知での回顧展をしたいという内容の話が飛び出した。

私が熊本から高知に帰って制作を始めた1977年には、和太守卑良は10年間制作した高知の安芸を去って笠間で制作を始めている。完璧な入れ違いである。
私は非力であること、和太さんと面識がないことを伝えた、和太さんの本籍地は高知市の北郊にあり、先祖は郷士ということまでは著書で知っていたので、本山出身という彼女は善意の人である以上に和太さんと血縁関係でもあるのかもしれないと思いながら話を続けた。
そこへ絶好のタイミングで高知県立美術館のM主任学芸員が登場したのでSさんを紹介して、三人で高知県立美術館での「和太守卑良回顧展」の可能性を模索するようなかたちになったが、予算の壁と大震災の被害の全貌がまだ掴めていないこと、東北各地の美術館も被害を受け、茨城県の笠間も栃木県の益子も打撃を受けたこと、笠間の和太さんの遺族の意向と、手元にある作品は無事なのだろうかといった展覧会以前の状況確認の必要性の話になった。
そして私の尊敬する岡倉天心の設計した茨城県の五浦六角堂が大津波で跡形もなく流されたことを聞かされたのはさらにショックだった。
第2章 俺たちの青春
私が早稲田大学の美術研究会の陶芸サークルに入ったのは1970年、早稲田祭のメインモニュメントを担当した後だった。本気になったのは北大路魯山人の最初の回顧展が契機だった。
陶芸サークルの創始者は同じ理工学部の2年先輩の玉井健司氏で「玉井さん、私はこれから陶芸をやりたいので教えてください。」と言うと、「分かりました。もう教授の推薦で就職する会社も決まっているのですが、1単位だけ落として、教授とも喧嘩して、留年しましょう。」という返事だった。

当時の美研は5年生6年生(留年組)のユニークな人材がゴロゴロ居て、1年先輩には劇団を主宰していた龍村修さん(龍村平蔵の孫)がいた。2年以上(?)先輩には教鞭をとっていた坂崎乙郎以上に最新の観念芸術の講義が出来るタケガイ(漢字が思い出せない)さんがいた、彼の講義は超難解だった。
1年先輩の吉田さんと須賀内さんが「武吉、タケガイさんのところに酒があるというから一緒に行こう。」というので酒に釣られて渋谷から井の頭線に乗り、さらに乗り継いで畑と林のある郊外に行った、もうあたりは夕闇が迫っていた。吉田さんが途中、「ここのはうまいから。」と言ってコロッケを4個買った。
やっと静かな里山の平屋の6畳に陣取って呑むことになり、タケガイさんが一升瓶を出してきたが酒は半分ほども残っていない!。吉田さんが持ってきたコロッケをそれぞれ1個ずつ左手に掴み、湯呑みに注いだ酒を右手に、4人で「さあ乾杯しよう!」と言った、その瞬間、真っ暗になった。停電だった。
そしてピアノの音が鳴っているのに気が付いた。何処からだろうとガラス窓を開けて外を眺めても辺り一帯が停電で真っ暗だった。「楽譜なしで弾いている。」と私が言うと「龍村の妹だ、近くに下宿していて、芸大に通っている。」と須賀内さんが言った。闇酒は美味しかった。その夜はタケガイ先輩と3人でコンセプチュアルアートのマルセル・デュシャンやリー・ウーハンを中心とする芸術論が延々と続いた、夥しい書籍で4人が横になって寝るスペースが無く、本を寄せ、川の字に寝て4人でドミノ倒しのように寝返りを打った。

玉井さんは翌年「特許の資格も取り、4年で卒業した人よりもはるかに実力がついています。」と言って新宿に出来たばかりの超高層ビルにある会社に悠々と就職して行った。
私は毎日窯を焚き続け、窯を焚く4時間の間に制作して、窯を冷ます4時間は国電に乗って東京国立博物館、根津美術館、日本橋の壷中居や不言堂などの古美術店まわりをしていた。

その当時、立派なアトリエも備えた第2学生会館は竣工していたものの、革マル主導の学生側と大学側が管理運営権で争いバリケード封鎖されていた。美研が第一学生会館4階の、倉庫のようになっていた会津八一記念室を不法占拠してアトリエにした後、下の2,3階に革マルの新聞印刷部が入った。
1階は大学の総務課の学館管理事務所になっていて、陶芸サークルの窯のある広い屋上ベランダ付きアトリエと革マルの部屋のみが特殊な24時間開放区で、早朝、機動隊が革マルの家宅捜索でアトリエにも間違ってなだれこんできたこともあった。
早大構内での川口大三郎君虐殺事件では一般学生の虐殺抗議のデモ隊が学館を取り囲み、革マルの連中は屋上の我々のアトリエに上がってきて、持ってきたブロックを割った欠片と石を投げ応戦、無くなると我々の焼いた壷やコーヒーカップを投げた。
夜間出入り口は革マルと同じで、夜遅く地下鉄の終電に間にあうように灯油窯の火を止めて、学館を出る際には鉄パイプで襲われないよう人通りのない街を地下鉄の早稲田駅まで走った。老朽した学館地下の学生食堂でぽつんと一人ハヤシライスを食べていると、食堂で働いている婆さんが手拭いで手を拭きながら奥からわざわざ出てきて孫に諭すように「あなた、こんなことをしていたら一生が台無しになるよ、学生運動なんか止めて、まじめに勉強しなさい。」とさんざん搾られたこともある。
まさか革マルのアジトの奥の院に美研の窯があるとは信じてくれなかった。辰砂釉を焼く還元炎の大きな炎と煙、あるいは黒陶を焼成すべく学館管理事務所でリヤカーを借り正月8日に集めた門松の松葉をむしって針金で巻いた団子を赤熱した窯にギシッと詰め込んでいぶす際にでる黒煙を火事と見間違えた通行人からの通報で総務課の萩原さんと里見さんが消化器を抱えて駆け上がってきて朦々たる煙の中、ほっとした顔が忘れられない。

飲み代に事欠き大隈講堂前で堂々と机を並べ「早稲田焼」の黒陶のヘルメット、ルガーP08、壷、徳利等を売って、「学内での営利活動は禁止だ!」「これは表現活動です。」という応酬もあった。
あまり頻繁に焚くので、サークル会員60人から集めた部費を私一人が使っているという不満が絶頂に達し、ある日突然、後輩達全員から除籍処分にされた。仕方が無いのでお茶の水女子大の陶芸サークルのコーチに就任し、お茶大に通って同じペースで焼成試験を続けた。
後に「除籍処分」は「事務処理上のミス」ということで撤回された。
趣味のサークル活動を逸脱して、問題ばかり起こすタチの悪い学生だった。

36歳の時も、S百貨店の個展の際、自分で作らせた巨大懸垂幕がはりまや橋裏側に吊られたことで「マネージメントはこんなもんじゃないだろう、生産と流通はフィフティフィフティだろう!」と個展初日の朝に会場で美術部長にガンガン怒鳴って、プレセールの作品も全部返品、焼け野原のように個展は終わった。そして個展経費100万は姉が黙って始末してくれた。

「おまえの記事は書かん、書かんということは高知に居らんと一緒じゃ!」とK新聞社に友人経由で言われて26年が経つ。そのときは「六古窯の自然釉が分かる古美術の素養のある記者が居ないから私の古土佐の自然釉の記事が書けない!」というのが私の分析だった。
「腕がいいのではなく穴窯がいいのだ。」という記者もいた。穴窯の桁違いのリスクと恐ろしさは焼いた者でないと絶対分からない。
2011年4月のおびさんロードの個展でも、某陶器店の社長がしみじみ「白龍」を眺めながら「わたしはずっとあんたを見てきたが、今こうして生きちゅうことが信じられん。」と言った。
陶芸家が我遅れじと陶芸教室を開いた1997年以降あまりにもたびたび言われるのでワンパターンで「俺にだって信じらんねえよ。」とふざけて笑うことにしている。私も、もう62歳のじいさんになった、知っている記者も皆とっくに定年になって引退した。

窯から火が出て第一学館が火災になる夢を頻繁に見て、曲がり角で第一学館の屋上が見え出すといつもホッとしたことだった。革マルの連中は正月休みは全員帰省した、意外だった、根性が無いと思った。
総務課の里見さんと約束した学館裏口の鍵は掛かっていて、店も食堂も閉まり、野良猫さえ消えてゴーストタウンになった早稲田の学生街でうろうろしてもパンすら買うことが出来ず、空腹のまま、頑丈な雨樋伝いに建築科の学生らしく?屋上までよじ登って、屋上からアトリエに入り、ひとり元旦に、めでたい初窯を焚いた。

  そのときの一句  「やきものの 寂しさに耐え 窯を焚く」

留年した大学5年目(このあたりも記憶が定かでない)には近くの新江戸川公園の元細川公の庭園つき御屋敷「松声閣」二階の一番見晴らしのいい大広間を借り、大学16校の陶芸サークル連絡会、「焼成会」をもじった「松声会」を主宰していた。創立メンバーは中央大の天沼徹氏(陶芸家)、鈴木重孝氏(陶芸家)、東京教育大の島田氏、学習院大の石田氏、東京工大の・・・氏だったと思う。
目的は、草創期の大学陶芸サークルの緊急の課題であった全釉薬の原料調合リスト作成とそれぞれの酸化,還元焼成、結晶釉では冷却温度曲線管理という焼成方法の確立、焼成実験成果の即時共有、そして黒船のように脅威だったピーターヴォルカスのような海外陶芸家をも含めた加守田章二、走泥社等の気鋭の作家の分析と、日本独自の百貨店の美術画廊という販売形態の未来予測、アメリカのような専門ギャラリーのディーラーの時代がくるかどうか・・・といったようなことが主要なテーマだった。
三十数年間の高知の四万十川上流ひきこもりで田舎ボケしてとっくに忘れていたら、現在、関東学生陶芸連盟になってますよと数年前に後輩の陶芸家設楽享良氏から知らされた。

人間社会のあらゆる組織は、組織は有って無いという草創期特有の熱烈でホットな状態から、時の移り変わり、構成人の移り変わりのなかで様々に変化してゆく。
若いひとがやりたいときに豊かな情報と様々な選択肢とルートがあっていい、それぞれが自分のカリキュラムを考え出し、実行してゆけばいい。陶芸とは「不屈の精神」である。

落第6年目は、放浪の旅の結果、熊本にいた。
早稲田を去る前に総務課に挨拶に行ったら里見さんが茶道をしているからと抹茶茶碗を記念に特注してくれた。ススで真っ黒になったアトリエとビアガーデンを楽しんだ屋上は私が早稲田を去った後、しばらくして革マルに占領されたとか。そして意外なことに老朽していた第一学館はさらに長い歳月、取り壊されずに2006年頃まで存続していて、跡地に高知の宿毛出身の小野梓記念館が建っている。
第3章 遠野の加守田章二、安芸の和太守卑良
1970年当時は彩文土器の加守田章二がパリコレのように毎年作風を一変させて青山のグリーンギャラリーで個展を開催していた。このギャラリーは早大の建築科OBの伊藤さんがオーナーで、国立近代美術館の工芸課(?)長の吉田耕三がエンジン、日本で最初の陶芸専門のギャラリーだったと思う。
加守田章二の遠野で制作した彩文土器の個展は初日の午前中に完売という熱気で、毎回一番いい作品が高知県安芸の長崎太郎のところにおくられたという噂も後に聞いた。
この安芸出身の長崎太郎という人物は、文芸春秋社を設立した菊池寛の一高での同級生で、京都市立美大の初代学長、京都市立美大は富本憲吉が教鞭をとり加守田章ニも和太守卑良も卒業生。
長崎太郎の構想は「遠野の加守田章二、安芸の和太守卑良」ということだったとか。加守田章二は1983年に50歳で亡くなっているが1975年に和太守卑良が高知を出るきっかけになった一言「和田は高知に長く居過ぎた」という言葉は陶芸界の伝説になっている。
こうして時が流れると二人が兄弟のように思えて仕方が無い。無数の作家が加守田章ニを追った、そしていまだに追っている。量産された巷の陶磁器にも彼の面影が写る。こうして加守田章二の没後30年という歳月が流れた今、ただ和太守卑良だけが近いトーンで確かに残っているようにも思う。

加守田章二の仕事は自分の生き肝を、一切れ切り取っては作品1点に貼付けるという性格のもので、2年後の1985年に39歳で亡くなった画家有元利夫(加守田と親戚関係)によく似ている。
そして1984年に43歳で、マッキンレー山で遭難した探検家植村直己にも同じような切ないトーンを感じる、その時代の風だろうか。

加守田章二の後続として一世を風靡した和太守卑良の仕事は、マーケットが造り出した加守田章二死後の傀儡の影武者なのか、それとも加守田章二の仕事を正面突破して、和太守卑良独自の世界を構築しているのかは、「和太守卑良回顧展」で、バブルの崩壊という経済事象のような要素を超越し、「あれはあれ、これはこれ」と、遥か未来の視座に立って冷静に作家の全貌を俯瞰したうえで、残された我々ひとりひとりが自分の眼で確認するべきだろう。
「陶は政をあらわす」、高度経済成長期の陶芸ブームの黄金の日々とその延長上の爛熟からこそ、オランダの絶頂期から後退期にかけてのフェルメールのような名品は残っていくと思う。
第4章 青い水墨画
長崎太郎の名前を心に刻んだのは1982年、壷の画家中沢竹太郎氏の高知県四万十町のお宅に大壺を届けに伺った時だと思う。土佐の江戸時代の画家の筆らしい水墨画を見せられ意見を求められた。
私が「漫画です。」というと、かなりムッとされたようで、次に青墨で描かれた二幅一対の「青い水墨画」を見せられた。高知のような田舎にあるはずのない数学的で難解で高度な絵なので「これはかなりいいものです。」と言うと、「今までこれが分かったのはあなたと長崎太郎さんだけです。」ということだった。
今になって思うと福富栄さんが「花の画家」になり、中沢竹太郎さんが「壷の画家」になったのも長崎太郎のアドバイスだったのではないだろうか。
京都美大の学生だった和田さんが1965年に長崎太郎さんに見せられた「清朝の水墨画」は、私が1982年に中沢竹太郎さんに見せられた「青い水墨画」のような気がする。
「青い水墨画」が長崎太郎旧蔵であれば納得できる。普通の人は買わない。
第5章 長崎太郎の眼と岡倉天心の眼
岡倉天心が美術品購入の決定をする光景はこうであったという。
執務室で岡倉天心は机に向かって仕事をしている。
職員が用件を伝え、執務室入口のドアのところで1幅の掛け軸を垂らす。
岡倉天心は振り向きざまに鋭い眼で絵を一瞥して、たった二つの言葉しか言わなかったという。

  一体それのどこがいいのかね。
  一体それのどこが悪いのかね.。

長崎太郎はウイリアム・ブレイクの本をニューヨークで収集している。長崎太郎が日本へ帰る時、親しくなったユダヤ人の本屋が、長崎さんを見送ってくれた。その時彼は別れの言葉に「お前の持って帰るものの価値を知るものはいないだろう。」といったという。(和太守卑良プロローグしゃっ化音29ページより一部引用)この「ノウワンノウズ」という言葉が長崎太郎の眼を象徴している。
たったこれだけのことだが、岡倉天心も長崎太郎も二人とも素養というものが培われていることが伺える。
一瞬で本物かどうかを見抜く「絶対音感のような眼」を持っているような気がする。
明治維新の廃佛棄釈で寺が壊され、仏像は焼かれ、川に流される時代、僧侶は強制的に神官にされる時代、法隆寺の五重塔が風呂屋の焚き物として競売に付されるという時代、若い岡倉天心はフェノロサの助手として、ともに法隆寺夢殿の救世観音の白布でぐるぐる巻きにされた封印を解いた。天変地異が起るという言い伝えを怖れた僧侶たちは逃げ散ったという。
こういう外国からの命懸けの勇気ある救助ともいえる日本文化探求のプロセスに岡倉天心は共働参加するという貴重な体験をしている。

フェノロサの国際標準の眼で日本文化を正当に評価する「絶対音感のような審美眼と素養」は岡倉天心に継承され、海外でさらに高度に培われたように思う。日本の優れた美術品を海外に紹介し東洋美術の世界的権威になると同時に、五浦六角堂のある五浦で横山大観、菱田春草等々を育て日本絵画を再構築してゆく。
時は流れ、昭和の戦後、日本は荒廃し、日本の優れた美術品がどんどん海外に流出する危機的状況が再びやってきた。米軍の日本文化保護の方針で焼けなかった京都という日本の伝統文化の中枢で、京都市立美大の初代学長に選ばれた長崎太郎は、戦後の陶芸ブームのなかプラスティック容器の普及での地方民窯の衰退という状況をも踏まえ、アートにシフトする提案をすべく、教育者として、加守田章二と和太守卑良とを育てたのだと思う。
そして成功し、陶芸ブームに拍車をかける。

加守田章ニと和太守卑良は、ロクロびきの窯屋としてではない、手びねりのアーティストとしての陶芸個人作家という新しい職業領域を切り開いた。
ウイリアム・ブレイクのアーツ・アンド・クラフツ運動をその思想として、長崎太郎は自身の生きたその時の日本の状況なりに展開したと思う。
岡倉天心が鎖国から開国というマクロシフトのなかで菱田春草と横山大観とを育て、その時代以降の国際標準に叶う、絵師から画家への近代日本画の道を確立したように。
第6章 個人作家
加守田章二が益子で和田守弘(高知に居た頃の名前)さんの奥さんに言った「和田は永く居すぎている。あいつは出て、一人でやりだすべきだ。」という言葉は、「高知は民度が低いので個人作家は経済的に成立しない、個人作家を目指すなら民度の高い東京周辺に出てきて活動をはじめるべきだ。」という意味である。

土佐の土での自然釉の個人作家になろうと帰ってきた1977年のこと、柳町のフランソアというバーで、高知のグラフィックデザイナーの草分けのO氏と初の個展の打ち合わせをしていた。
隣の人物が「民度の低い高知で個人作家は無理だ、三ヶ月か三年でつぶれるだろう、見届けてやる。」というような意味の、きつい言葉を言い放って出て行った。
腹も立ったが、高知で生まれ育った私の起業への恐怖心も、やはり「民度」というその一点にあった。
彼は地元百貨店の関係者だったのでさまざまな体験もあり和田守弘さんの安芸を出るまでのいきさつも把握していたのだろう。そばで飲んでいて、話が耳に入り、私の生意気さに我慢できなくなったのだろう。

窯場放浪中に門を叩いた陶芸家達は異口同音に、「陶芸家になるのは止めなさい、食えないから、もしなっても穴窯だけには手をだすな。」という親身なアドバイスをくれた。
窯場放浪中の風体は野宿を重ねる歩き遍路と同じで、夕暮れ時、遠くに瞬く家庭の灯が幸せそうに暖かく見える。福岡県の炭坑閉山後の飯塚の街は荒んでいて、夕暮れ時に大小十数匹の野犬がついてきた、飢えた危険な捨て犬の集団だった。すぐ前に廃墟のような建物の残骸があり、その絶好の構造のブロック塀によじ登り、軽業のように、寝袋に潜り込み仰向けに寝た。両の肩甲骨でブロック塀を挟むようにして、馬の鞍のように両側にたらしたリュックを枕に美しい星空を眺め、水筒の地酒を取り出して飲んだ。
朝になるともう野犬達の姿は無く、夜露にじっとりと濡れた寝袋が朝陽を反射して輝いていた。我ながら珍な光景なので、すぐに降りて、寝袋を巻き、リュックを背に、さっさと歩き出した。

自分の理想とする自然釉の壷を焼く陶芸家が何処かに隠れ住んでいないかと思って、しらみつぶしに山奥まで歩いて捜し回ったが、体系的完成をみた人が居るはずのない自然釉草創期の時代で、居るはずもなかった。そこそこ腕の立つ陶芸家は、東京に居た時に皆知っていた。
この旅で、どんな僻地に居てもその存在と評価は結局は隠せないという自信につながる確信のようなものも得た。

この数ヶ月、原稿を書いていて、一番大きな発見は、今の自分の自然釉の壷、白龍や水の王、火の王が、その旅で捜していた師匠の自然釉の壷ということである。
24歳の馬の骨の私がリュックを背負い野宿をして捜し回っていた自然釉の陶芸家は、なんと38年後の自分そのものだったということ、独り笑い出してしまった。
やはり私にとっても人生の旅というのは自分自身を発見する旅だった。
そしてさらにもうひとつ、和田守弘さんが10年間で高知を出て、和太守卑良として笠間で再出発したように、1977年に高知に帰ってきた武吉広和も10年後、「焼け野原個展」を機に、心構え上、心は高知を出て、本籍上の名前、武吉廣和に戻し、窯印も変え、窪川町(合併し現四万十町)日野地ではなく、自称ニューヨーク郊外の、自称「火の地」で制作を始めている。          

高知で陶芸個人作家として無所属で穴窯の仕事を続けると、喫水の低い四万十川で泳ぎ回るクジラのように黒い背中が陽に焼けて痛む、白い腹は砂利と頁岩でこすれ血がにじむ。
そんなときは数億年のスパンで自分の魂の遍歴を夢のように回想することにしている。クジラはもともと陸生であったこと、さらにもともと海生であったこと。
数千年前、中国で焼いていた頃の私のファンがカナダから観光でやってきて買ってくれたり、フランスのマルモッタン美術館の館長として出会ったり、前世の母(複数)がコレクターとして応援してくれたり。今生もまた過去世であり、さらに来世でもある。ひとりひとりが信じると信じないとにかかわらずそうなのだろう。
そして皆が皆、縁という遥かなる時空の繋がりの中で立ち行くのだろう。

本場という実績と繁栄と奢りとしがらみにまみれた都よりも、誰もが期待しない不毛で無垢の場末の地をあえて選択し、民度を耕し、独立独行で目的を達成するユニークなカリキュラムというものもあるのだろう。
妄想と笑う人も多いが、博物館、美術館、ギャラリー等々で美術品を観る時、3億円の札束が入っている重い段ボール箱を足許に持っていると仮定して、本当に購入し、共に暮らせるか真剣勝負の決断をする。想像することは無料で大切である。前世では地位も名誉も金もあったが、何かしら空しかった、何なのだろう。
今回は、地位と名誉と金があっても出来ないことをやろう。そして三十代半ばで、のたれ死ぬ覚悟だった。これを某陶器店の社長もしっかり感じとっていたのだろう、彼は正常である。

三十代半ばで某百貨店とドンパチをやった後、久礼坂の長い長い登り車線でノロノロ運転の過積載大型保冷車にうんざりして、はみだし禁止車線でうっかり前の車に続いて追い越しをかけた、完全に自分の前方不注意だった、前の車は保冷車を無事に追い越せたが、私の車はそうはいかなかった。前方から下り車線を走ってきた大型保冷車に挟まれるかたちになってしまった。二車線の幅を計算して確実に死を覚悟した瞬間、なにもかもが超スローモーションになり、三台の車の全景が見え、それぞれの運転手の必死に避けようとする気持ちが分かり、自分の車の制御がミリ単位で出来、奇跡が起こり、接触すらも無かった。

この一瞬に自分のそれまでの一生の愚かな全光景を血の匂いのように見せられ、深淵な反省があった。
そして改めて神様から命を頂き直し唯物論は消えた。  
    
  「身を捨つる 身は無きものと思う身は 天一自在 疑いも無し」(木喰五行の歌)
第7章 妻との出会い
1980年頃から和太守卑良は現代陶芸の旗手となり加守田章二と並走するようになる。
1983年に加守田章二が亡くなると和太守卑良に注目が集中し、日本を代表する現代陶芸家のひとりとして、国際的な活躍がはじまる。

1989年私が39歳の四万十川上流の秋、小さな男の子を連れた女の人が窯場への坂道を登ってきた。
中学高校時代をとうしての同級生の竹ちゃんだった。美大を出て美術の教師をしていた。
穴窯を見せると男の子は遊園地の築山に登るように登って元気に遊んだ。「いったいどこで寝ゆうが?」と聞くので、上の仕事場のバラックに案内し、蹴ロクロのロクロ座を指して、「板で蓋して、その丸めちゅう寝袋で作業着のまま寝ゆう。」と答えた。
いろいろ話して、最後に彼女は「とうとう武吉君も結婚出来んかったねえ・・・。」と言って帰って行った。

それからしばらくして、夜の10時頃、めったに鳴らない電話が鳴った。
受話器を取ると、ちょっと沈黙があって「わたしは誰でしょう?」と、はじめて聞く若い女性の声がした。
瞬間、「ひとを小馬鹿にしやがって」と思い「ヒント!」ときつく言った。すると相手は「本を贈りました。」と言った。
誰だか見当がついたので、意地悪く「宇宙の本質とは何か!」と禅問答のように気合いを入れて訊いた。
その瞬間、相手は「宇宙に遍満する生命の原理、創造の原理。」と丁寧に言った。
私は仰天した。これで「わたしは誰でしょう?」と質問してきた女のひとが、ほかでもないこの私の「結婚相手」だと分かった。
スフィンクスの謎かけのように、はるか昔からこの難問に答えられる人こそが結婚相手だと決めていた。

これにはさらに後日談がある。
16年後の2005年に高知県立美術館の高知美術家九条の会主催、第1回「九条の風を吹かそう美術展」に、共に発起人だった妻と行った。私は「水の王」を出品し、妻は来場者に「平和憲法ありがとう」と寄せ書きしてもらう、マンダラアートのワークショップを会期中開催した。
受付に行くと、なんと竹ちゃんが事務局として座っているではないか。
「こちらが、とうとう武吉君も結婚出来んかったねえと言うた同級生の竹ちゃんです。」と、笑いながら妻に紹介した。すると彼女はとんでもないことを言い出した。あの時、武吉君は「ぼくは星占いで、もうすぐ結婚相手と出会うことになっちゅう。」と答えたのよ、忘れたの?。
第8章 結び 長崎太郎の残したもの
明治維新の岡倉天心(1863~1913)の大きな影響力から、人類の遺産としての公共博物館、美術館、財閥の美術館が公共に付され一般日本人の民度は国際標準まで上る。
長崎太郎(1892~1969)は菊池寛、芥川龍之介と一高で友人で、魯山人より9歳若く、富本憲吉より6歳若く、バーナード・リーチより5歳若く、柳宗悦より3歳若く、河井寛次郎より2歳若い。
そして2歳年下に濱田庄司、荒川豊蔵、5歳年下に加藤唐九郎、6歳年下に井伏鱒二、8歳年下に小山富士夫、9歳年下に青山二郎、10歳年下に小林秀雄、17歳年下に土門拳、18歳年下に白州正子・・・等々がいる。戦後の陶芸王国日本を構築した人物は数限りなく居る。

これも私の妄想にすぎないが、安芸出身の岩崎弥太郎の起こした日本郵船の◯◯丸の船内装飾の仕事を魯山人に依頼したのは日本郵船に勤めていた頃の長崎太郎だったのではなかろうか、魯山人の弟子だった吉田耕三と共に弟子で、黒い殊洲の壷の土の謎を解いた小野寺玄との関係、そして長崎太郎の期待を背負った加守田章二と和太守卑良が、遠野、安芸に展開し、小山富士夫の期待をになった中里隆が種子島焼きを復興、常滑の江崎一生が古常滑の穴窯を復元し、備前の森陶岳が備前で最初に穴窯を復元するという時代があった。

最初、加守田章二は江崎一生の穴窯を見学して、自然釉をあるいは炭化冷却の灰釉を発表していたように思う。学生時代に、確かに穴窯の火前で焼いた自然釉の灰かむりのコーヒーカップ2個を東京の無名の小さなギャラリーのショウーケースで見て、造形と古格に驚いたことがある。
自然釉の、あるいは灰釉炭化冷却の仕事はシャープな感性のいいロクロの仕事だったのに、「もったいないから。」と岩手県の遠野の土で1点1点異なるフォルムの作品を手びねりでじっくり作り、灯油窯で的確に取る、彩文土器シリーズに移る。それを無数の陶芸家が追うという陶芸界ゴールドラッシュ現象が起った。
吉田耕三すら最初、彩文土器には戸惑ったという、加守田の見つけた金の鉱脈とは、そして和太守卑良も作家人生を賭けた金の鉱脈とはいったい何だったのだろう。     

これも私の妄想にすぎないが、数十年間、ずっと見渡してきて、青森県名川町・館野遺跡出土 縄文早期 青森県立名久井農業高等学校所蔵 尖底土器 (梅原猛監修 「人間の美術」 学研 カラー図版14) の写真は加守田章二の彩文土器シリーズのトーンを全て包含するように思う。
加守田がこれを見たという確証など何も無い、東京国立博物館で、この縄文土器の前にいつまでも佇む加守田のイメージが有る。
教授だった富本憲吉はもちろんのこと、京都ならではの走泥社の洗礼も受け、益子の濱田庄司から民芸の洗礼も受け、常滑の江崎一生から中世の穴窯の洗礼も受け、自分とは誰なのかを模索するなかで、それらのしがらみを振り切るように、さらに時を遡行して岩手県遠野の地で縄文土器の生々しい原初の土を手に陶芸の原点に立ったのだと思う。

各地の民窯を襲う産業ロボットの席巻の嵐の最中、漬け物壷や擂鉢というファンタジーのかけらもない製陶業にウイリアム・モリスのアーツ アンド クラフツ運動の思想を取り入れて高度なアートにシフトさせるという長崎太郎の意志を継ごうとしたことは長男に太郎と名付けたことからもうかがえる。(ちなみに和田さん達三人が1969年に安芸で設立した窯の名前は三太郎工房)
加守田章二の仕事は、もう一度、エデンの園で土をこねようというものだったと思う。
世界最古ともいわれる複雑怪奇な縄文土器の土でアダムとイブを作りパリコレのおしゃれな服を着せるという画期的なものだったと思う。創造の原点回帰だった。
これが、しがらみに満ちた、1万年間積もった焼き物堆積層を堀り進んだ加守田章二の見つけた金の鉱脈である。

土器の800度の土俵では土は生きて、柔らかく、呼吸をしている。 1000度の須恵器ではシャッ器質の息も絶え絶えの微妙な表情に変わる、1300度の土俵上では最早、冷たい死体でしかない。
加守田の最終的目標は1300度のガラスとも言える磁器の土俵上でも柔らかく呼吸をしている元気なアダムとイブを作り、パリコレの服を着せるというものだったと思う。
そしてこの方向性が和太守卑良の心をも捉え我々の世代の大きなうねりになったのだろう。

Sさんからの和太守卑良回顧展の話から一年半経った。
こうして長崎太郎とその周辺の人物のひとつの断面を、おそまつな自分の小さな脳にひきあてながら、コジメテ考察する機会を得た。
あくまで自分のために、田舎ボケのリハビリのために書いた。
ここまで読んで下すってありがとう。