私が早稲田大学の美術研究会の陶芸サークルに入ったのは1970年、早稲田祭のメインモニュメントを担当した後だった。本気になったのは北大路魯山人の最初の回顧展が契機だった。
陶芸サークルの創始者は同じ理工学部の2年先輩の玉井健司氏で「玉井さん、私はこれから陶芸をやりたいので教えてください。」と言うと、「分かりました。もう教授の推薦で就職する会社も決まっているのですが、1単位だけ落として、教授とも喧嘩して、留年しましょう。」という返事だった。
当時の美研は5年生6年生(留年組)のユニークな人材がゴロゴロ居て、1年先輩には劇団を主宰していた龍村修さん(龍村平蔵の孫)がいた。2年以上(?)先輩には教鞭をとっていた坂崎乙郎以上に最新の観念芸術の講義が出来るタケガイ(漢字が思い出せない)さんがいた、彼の講義は超難解だった。
1年先輩の吉田さんと須賀内さんが「武吉、タケガイさんのところに酒があるというから一緒に行こう。」というので酒に釣られて渋谷から井の頭線に乗り、さらに乗り継いで畑と林のある郊外に行った、もうあたりは夕闇が迫っていた。吉田さんが途中、「ここのはうまいから。」と言ってコロッケを4個買った。
やっと静かな里山の平屋の6畳に陣取って呑むことになり、タケガイさんが一升瓶を出してきたが酒は半分ほども残っていない!。吉田さんが持ってきたコロッケをそれぞれ1個ずつ左手に掴み、湯呑みに注いだ酒を右手に、4人で「さあ乾杯しよう!」と言った、その瞬間、真っ暗になった。停電だった。
そしてピアノの音が鳴っているのに気が付いた。何処からだろうとガラス窓を開けて外を眺めても辺り一帯が停電で真っ暗だった。「楽譜なしで弾いている。」と私が言うと「龍村の妹だ、近くに下宿していて、芸大に通っている。」と須賀内さんが言った。闇酒は美味しかった。その夜はタケガイ先輩と3人でコンセプチュアルアートのマルセル・デュシャンやリー・ウーハンを中心とする芸術論が延々と続いた、夥しい書籍で4人が横になって寝るスペースが無く、本を寄せ、川の字に寝て4人でドミノ倒しのように寝返りを打った。
玉井さんは翌年「特許の資格も取り、4年で卒業した人よりもはるかに実力がついています。」と言って新宿に出来たばかりの超高層ビルにある会社に悠々と就職して行った。
私は毎日窯を焚き続け、窯を焚く4時間の間に制作して、窯を冷ます4時間は国電に乗って東京国立博物館、根津美術館、日本橋の壷中居や不言堂などの古美術店まわりをしていた。
その当時、立派なアトリエも備えた第2学生会館は竣工していたものの、革マル主導の学生側と大学側が管理運営権で争いバリケード封鎖されていた。美研が第一学生会館4階の、倉庫のようになっていた会津八一記念室を不法占拠してアトリエにした後、下の2,3階に革マルの新聞印刷部が入った。
1階は大学の総務課の学館管理事務所になっていて、陶芸サークルの窯のある広い屋上ベランダ付きアトリエと革マルの部屋のみが特殊な24時間開放区で、早朝、機動隊が革マルの家宅捜索でアトリエにも間違ってなだれこんできたこともあった。
早大構内での川口大三郎君虐殺事件では一般学生の虐殺抗議のデモ隊が学館を取り囲み、革マルの連中は屋上の我々のアトリエに上がってきて、持ってきたブロックを割った欠片と石を投げ応戦、無くなると我々の焼いた壷やコーヒーカップを投げた。
夜間出入り口は革マルと同じで、夜遅く地下鉄の終電に間にあうように灯油窯の火を止めて、学館を出る際には鉄パイプで襲われないよう人通りのない街を地下鉄の早稲田駅まで走った。老朽した学館地下の学生食堂でぽつんと一人ハヤシライスを食べていると、食堂で働いている婆さんが手拭いで手を拭きながら奥からわざわざ出てきて孫に諭すように「あなた、こんなことをしていたら一生が台無しになるよ、学生運動なんか止めて、まじめに勉強しなさい。」とさんざん搾られたこともある。
まさか革マルのアジトの奥の院に美研の窯があるとは信じてくれなかった。辰砂釉を焼く還元炎の大きな炎と煙、あるいは黒陶を焼成すべく学館管理事務所でリヤカーを借り正月8日に集めた門松の松葉をむしって針金で巻いた団子を赤熱した窯にギシッと詰め込んでいぶす際にでる黒煙を火事と見間違えた通行人からの通報で総務課の萩原さんと里見さんが消化器を抱えて駆け上がってきて朦々たる煙の中、ほっとした顔が忘れられない。
飲み代に事欠き大隈講堂前で堂々と机を並べ「早稲田焼」の黒陶のヘルメット、ルガーP08、壷、徳利等を売って、「学内での営利活動は禁止だ!」「これは表現活動です。」という応酬もあった。
あまり頻繁に焚くので、サークル会員60人から集めた部費を私一人が使っているという不満が絶頂に達し、ある日突然、後輩達全員から除籍処分にされた。仕方が無いのでお茶の水女子大の陶芸サークルのコーチに就任し、お茶大に通って同じペースで焼成試験を続けた。
後に「除籍処分」は「事務処理上のミス」ということで撤回された。
趣味のサークル活動を逸脱して、問題ばかり起こすタチの悪い学生だった。
36歳の時も、S百貨店の個展の際、自分で作らせた巨大懸垂幕がはりまや橋裏側に吊られたことで「マネージメントはこんなもんじゃないだろう、生産と流通はフィフティフィフティだろう!」と個展初日の朝に会場で美術部長にガンガン怒鳴って、プレセールの作品も全部返品、焼け野原のように個展は終わった。そして個展経費100万は姉が黙って始末してくれた。
「おまえの記事は書かん、書かんということは高知に居らんと一緒じゃ!」とK新聞社に友人経由で言われて26年が経つ。そのときは「六古窯の自然釉が分かる古美術の素養のある記者が居ないから私の古土佐の自然釉の記事が書けない!」というのが私の分析だった。
「腕がいいのではなく穴窯がいいのだ。」という記者もいた。穴窯の桁違いのリスクと恐ろしさは焼いた者でないと絶対分からない。
2011年4月のおびさんロードの個展でも、某陶器店の社長がしみじみ「白龍」を眺めながら「わたしはずっとあんたを見てきたが、今こうして生きちゅうことが信じられん。」と言った。
陶芸家が我遅れじと陶芸教室を開いた1997年以降あまりにもたびたび言われるのでワンパターンで「俺にだって信じらんねえよ。」とふざけて笑うことにしている。私も、もう62歳のじいさんになった、知っている記者も皆とっくに定年になって引退した。
窯から火が出て第一学館が火災になる夢を頻繁に見て、曲がり角で第一学館の屋上が見え出すといつもホッとしたことだった。革マルの連中は正月休みは全員帰省した、意外だった、根性が無いと思った。
総務課の里見さんと約束した学館裏口の鍵は掛かっていて、店も食堂も閉まり、野良猫さえ消えてゴーストタウンになった早稲田の学生街でうろうろしてもパンすら買うことが出来ず、空腹のまま、頑丈な雨樋伝いに建築科の学生らしく?屋上までよじ登って、屋上からアトリエに入り、ひとり元旦に、めでたい初窯を焚いた。
そのときの一句 「やきものの 寂しさに耐え 窯を焚く」
留年した大学5年目(このあたりも記憶が定かでない)には近くの新江戸川公園の元細川公の庭園つき御屋敷「松声閣」二階の一番見晴らしのいい大広間を借り、大学16校の陶芸サークル連絡会、「焼成会」をもじった「松声会」を主宰していた。創立メンバーは中央大の天沼徹氏(陶芸家)、鈴木重孝氏(陶芸家)、東京教育大の島田氏、学習院大の石田氏、東京工大の・・・氏だったと思う。
目的は、草創期の大学陶芸サークルの緊急の課題であった全釉薬の原料調合リスト作成とそれぞれの酸化,還元焼成、結晶釉では冷却温度曲線管理という焼成方法の確立、焼成実験成果の即時共有、そして黒船のように脅威だったピーターヴォルカスのような海外陶芸家をも含めた加守田章二、走泥社等の気鋭の作家の分析と、日本独自の百貨店の美術画廊という販売形態の未来予測、アメリカのような専門ギャラリーのディーラーの時代がくるかどうか・・・といったようなことが主要なテーマだった。
三十数年間の高知の四万十川上流ひきこもりで田舎ボケしてとっくに忘れていたら、現在、関東学生陶芸連盟になってますよと数年前に後輩の陶芸家設楽享良氏から知らされた。
人間社会のあらゆる組織は、組織は有って無いという草創期特有の熱烈でホットな状態から、時の移り変わり、構成人の移り変わりのなかで様々に変化してゆく。
若いひとがやりたいときに豊かな情報と様々な選択肢とルートがあっていい、それぞれが自分のカリキュラムを考え出し、実行してゆけばいい。陶芸とは「不屈の精神」である。
落第6年目は、放浪の旅の結果、熊本にいた。
早稲田を去る前に総務課に挨拶に行ったら里見さんが茶道をしているからと抹茶茶碗を記念に特注してくれた。ススで真っ黒になったアトリエとビアガーデンを楽しんだ屋上は私が早稲田を去った後、しばらくして革マルに占領されたとか。そして意外なことに老朽していた第一学館はさらに長い歳月、取り壊されずに2006年頃まで存続していて、跡地に高知の宿毛出身の小野梓記念館が建っている。 |