陶芸家 武吉廣和 和太守卑良は加守田章二を正面突破出来たか   閉じる
和太守卑良は加守田章二の京都市立美大での後輩である。
年齢こそ11歳離れているけれど、陶芸界では珍しいほど、兄弟のように縁が深く、作風が近い。
加守田章二の評価は、伝説的にまで確立されている。
今、この二人の作家のことを考えてみよう。

連星(双子星)がまるで一つの星のように廻っている場合、どういう経緯でそうなったのか、銀河系の中で、周囲の様々な星々と、どういう位置、重力関係にあるのか見極めることになる。
関係者全員が他界して、その世代が過ぎ去り、永い時という厳しい自然淘汰に曝された後、その解け時という季節が経巡ってきて、シベリアの永久凍土が融けて露出するマンモスの牙のように、化石となるまで、落ち着くところに落ち着くまで、じっと待つのが穏当な判断なのだろう、しかし何か大きなものを失うという気持もする。早いもので、長谷川利行没後62年、魯山人没後53年、加守田章二(享年49歳)没後29年、になる。本当に、この三人の作家は風化の中の稀な顕現としか言いようが無い。

和太守卑良に関しては遺族、関係者が健在な今でこそ、貴重な情報を得るとか・・・今だからこそ、出来ることもまた多いとも思う。
加守田章二の後続の作家は、この30年だけでも、無数に居たような気がするが、それぞれが方向を変え、いつのまにか消えてしまったように思う。
私は陶芸制作をするとき、40年間、ずっと出口王仁三郎と北大路魯山人を北極星のような目印にして進んでいる。
同じように、和太守卑良が仕事をするとき、「かもさん」(加守田章二)が念頭から離れることはなかったろう。
私の仕事は魯山人が穴窯で自然釉の仕事が出来ていたらと空想し、魯山人が古信楽の壷を石膏型にとって作った壷に灰釉や織部釉を掛けて連房式登り窯で焼いた作品の向こうに見える魯山人の「イライラ」に応えようとする仕事でもある。

手がかりのもうひとつは芸術論で、魯山人の文章は痛快、岸田劉生日記は克明かつ正直に記されていて、本当に勉強になる。路上死した長谷川利行の希少な記録も胸を打つ、逆に中川一政の著作はブランデーを飲みつつ読めて楽しい。
こんなことが心を培い、仕事を育てる栄養になる、熱情がなければ仕事は続かない、ライバルがいなければ仕事は燃えない。しかし、ライバルも超えてしまえば古代文明の神品の域が開ける、上には上がいくらでも居る。心配は要らない。

高知県立美術館で1995年に開催された日和崎尊夫(享年51歳)の回顧展は没後3年で素早かった。そういう機運も存在したし、早熟ゆえ天才版画家としての全貌がすでに見えてもいたし、作家周辺の証言も収集してあり、図録も資料として完成度が高い。
しかしこの20年間で何ができたろう。私に分かったことは自ら光を発する星と、反射で光っていた星との区別ぐらいのもの、彼の作品からの光は減衰せず、逆にすこしずつ増してきているという実感ぐらいなもの。しかしこれは、多くの物故作家の中で極めて異例のことではある。

「千代鶴是秀の眼と北大路魯山人の眼」でも書いた「研ぎ師の眼」のことだが、日和崎尊夫の父は日和崎辻英という日本刀の研ぎ師である。
世界の名だたる版画家の中で、高知県出身の木口木版画家、日和崎尊夫の早熟な才能が鮮やかに突出してしまう理由は、天与の才能と「極めて高度な日本刀の研ぎ師の眼、日本刀鑑定の眼」を生まれながらに培う研ぎ師の息子という教育環境にあったと思う。
そしてウイリアム・ブレイクの木口版画を知ったことにあると思う。
そして加守田章二と同じ「老子」からのインスピレーションが代表作「カルパシリーズ」を生む。
加守田章二の代表作「彩文土器シリーズ」と「1968年から1972年」という時代も何故かほぼ重なる。
1969年に長崎太郎は亡くなっている。日和崎尊夫と長崎太郎との接点はあったのだろうか。

世間人としての価値観で自分を律し、世間人としてしっかり空気を読み、努力した、世間人として立派な作家はこの世のものであるゆえに、この世のうつりかわりにしたがって、水の流れのように忘れ去られるという法則。
反対に、例えば魯山人は、柳宗悦を「初歩悦君」と呼び、バーナード・リーチを「疑似東洋趣味」と切って捨て・・・芸術家としての良心に正直に情報発信して世間人としては敵を大量生産した、その反面、良寛に傾倒し、若い中川一政に油絵を学びたいと乞い、奥村土牛を畏敬した。
魯山人にとって、生きるということは美に殉ずることで、処世術のかけらもない訳でも無かったにしろ、世間人としての濃度は哀れな程薄い、ゆえに死後、のし上がって来る、これもまた法則。

この辛辣な魯山人に加守田章二と和太守卑良の作品を見せたらどう評価することだろう。
富岡鉄斎と同じく最晩年まで芸術的境涯の上昇を続けた人気絶頂期の加藤唐九郎は、同じく人気絶頂期の加守田章二への所感を問われ「ナーニ、年増芸者が厚化粧をしとるようなもんじゃ、雑巾でザーとぬぐったら何も残らん。」というような相変わらずのモチベーションの高い(?)言い方をしたように記憶している、魯山人も近い表現をすることだろう。

魯山人や唐九郎の世代は、志野のもぐさ土、信楽の黄ノ瀬土、備前の・・・、伊賀の・・・、瀬戸の・・・、という「土のなかの土」と、「ちりめんジワのある高台削りの土見せの土味」を絶対視する古窯復元世代、新古典派である。
「桃山時代の黄金に匹敵する、色白の楊貴妃のような良い土」を一生涯捜し求めた彼等が、岩手県遠野の黒い土や、褐色の関東ローム層の笠間のミックスされた土を認めるわけがない。「鉄やマンガンという不純物の多い粘土を使い、顔料で覆い尽くすような仕事」を認めるわけが無い。
鯛やヒラメの刺身を尊ぶ日本料理の視座では、ソーセージを評価出来るはずがない。

日本の茶陶文化と、カオリンを産出しない欧州生まれのクラフト文化は、依って立つ伝統と生活空間というありようが全く異なる。
戦後の焼け野原に一斉に起る建築ブームは和洋折衷住宅を産み、都会のマンションではソーセージ料理や青カビチーズとワインがよく似合う。
そして、懐古的な民芸でもなく、桃山時代の新古典派でもない、加守田章二と和太守卑良のおしゃれな都会的感性が、社会現象とぴったりフィットする。
クラフト運動の推進者である長崎太郎と富本憲吉からリベラルな思想と美学と色絵文様を学んだ加守田章二と和太守卑良は、益子と安芸でそれぞれ民芸を学び、遠野と笠間で彼等なりの新しいクラフトの作風を開拓したと思う。
(クラフトという言葉はあまりに広汎なのでどうかとも思うが他に適当な言葉が見当たらない。陶芸家のあいだでは「あいつはクラフトだ」というふうに当たり前のように使っている。言われたほうは心外な場合もある。)

特徴は手びねりで、ロクロからの回転体という制約から解放され、自由自在なフォルムもデザインも可能になった。
加守田章二のように、ギャラリストに「自分の作品の値段を上げないでくれ」と要請すると、完売はするが、彼ほど完成度の高い手びねり作品は、膨大な時間とエネルギーが費やされるのに、すごい勢いで数をこなさねばならなくなる。さらに年2回、がらっと趣向を変えるパリコレのやりかたの個展を自分に課すと・・・これはもはや修道僧の命をかけた壮絶な苦行となる。
健康への懸念は当初から存在した。なぜそこまでするのだろうという思いは当時の誰もが感じていた。
「作風が暗くなれば彼は死ぬだろう。」という不吉な予言のような言葉まで飛び交っていた。

◯◯焼として、同じ十八番の技法を、一生涯どころが子孫代々続けるという◯◯焼が当たり前の時代に、加守田章二のやり方は全く斬新で、驚異とまでになっていた。
今ともなれば、クラフト運動の長崎太郎と富本憲吉が日展から決別すべく立ち上げた京都美大陶磁器科の一期生?としての期待を一身に背負い、名門子弟の通う東京芸大工芸科を超えようと頑張ったことも少しはあるかとも思う。事実そうなっている。
長崎太郎が没した1969年から彩文土器の花が咲くのも偶然ではないし、1983年に加守田章二が没して、彼からバトンを受け取ったように和太守卑良の複雑多彩な文様も和太守卑良様式という高水準に開花するのも、そうした一貫した意地のようなものがあると思えば納得出来る。
加守田章二は、遠野の土というワイルドでデモーニッシュな霊的な御土に祈りを捧げ、虹色の薄絹の羽衣を着せ、天国へと飛び立たせる。
加守田章二はまだ土のパワーにこだわり続けた。土と顔料は対等の関係にある。遠野の土を卒業しようとするところで亡くなる。

和太守卑良は、加守田の遠野の土に比して、強い個性の無い笠間の土を使う葛藤のなかで、土という主役を切ったように見える。
驚くべきことに、陶土に関しては、あくまで舞台装置として、きっぱり割り切ったようにも見える。
ここで「土あじ」という土からの呪縛という日本陶芸独特の既成概念から完全に決別をし、クラフトの領域に入るように思う。
ここが和太守卑良の偉いところである。
加藤唐九郎が理解出来ず罵倒した「年増芸者の厚化粧」は、和太守卑良により、スーパーモデルの「メイク」という国際ステージにまで高められる。これは,長崎太郎と同じ「反骨」であり、富本憲吉の、釉薬、色絵、赤絵、金彩だけの「伝統的色絵模様」からの超越という加守田章二の流れの継承、そして、加守田章二への正面突破である。
彼は言霊としての文様を産み、使役する、古代中国のアンダーソン土器の文様から古代ガリアのケルト文様までをも総括し、私の脳では解析不能の迷宮無限文様をまで立ち上げる。
この複雑系色彩多重デザインの迷宮のようなある種の「複雑系多次元トーン」が和太守卑良固有の真骨頂である。
もはや誰も追随できない。

                                                2012年11月2日 武吉廣和